THE LAST DESCENT/アメリカ
監督:ソフィー・バルテス
原作:ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(芳川泰久(著)/新潮文庫)
<主なキャスト>
エマ・ボヴァリー:ミア・ワシコウスカ
ルウルー:リス・エヴァンス
レオン・デュピュイ:エズラ・ミラー
侯爵:ローガン・マーシャル=グリーン
シャルル・ボヴァリー:ヘンリー・ロイド=ヒューズ
オメー:ポール・ジアマッティ
……etc
日本では2016年7月に劇場公開されたアメリカ,ドイツ,ベルギー合作の映画。フランスの小説家ギュスターヴ・フローベールが1856年に発表した同名小説が原作。
フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(1821年~1880年)の代表作である「ボヴァリー夫人(Madame Bovary)」は1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載された。「フランス写実主義(リアリズム)の最高峰」とも称される。約4年半の歳月をかけて書かれた「ボヴァール夫人」は、18世紀後半から19世紀前半にヨーロッパで巻き起こったロマン主義的な感傷を排除し、人間の心理や現実的な社会性を客観的に描いた。フローベールはボヴァリー夫人のモデルを問われ、「ボヴァリー夫人は私だ」と答えたという逸話が残っている。「ボヴァリー夫人」の主人公、エマのように自身の置かれている現実に幻滅し、自身を己の実態とはかけ離れた分不相応な妄想に囚われて自滅していく精神状態を心理学や文学において「ボヴァリズム」と呼んだりする。
「ボヴァリー夫人」の内容は、田舎の医者シャルル・ボヴァリーと結婚したエマが仕事一筋で面白みのない夫シャルルとの結婚生活や退屈な田舎暮らしに嫌気が差し、愛人を作り情事にふけるようになる。華やかな生活に憧れるエマは、贅沢なドレスや家具などを借金を重ねながら買いあさる。しかし、高額な借金の返済に行き詰まり、愛人たちからも見捨てられ、追い詰められたエマはヒ素を服毒して自殺する。「ボヴァリー夫人」が書かれた頃のフランスはナポレオン3世による第2帝政の時代。雑誌に掲載された際、姦通を肯定的に描いているとして「公衆道徳および宗教に対する侮辱」の罪で起訴された。裁判にかけられたが無罪判決を勝ち取った。この騒動が宣伝となり、1857年に単行本が発売されるとたちまち大ベストセラーとなった。「ボヴァリー夫人」によって「リアリズムの父」と称されることになったフローベールだが、本人は文学を崇高な芸術ととらえており、現実をただ写真のように切り取ったかのような写実主義という雑なくくりで捉えられることに強い嫌悪感と屈辱を抱いていたという。
19世紀半ばのフランス。修道院暮らしのエマは父親の勧めで年上の医師のシャルル・ボヴァリーと結婚する。エマはヨンヴィル(架空の田舎町)の夫の家で暮らすようになる。結婚生活はエマの思い描いていた楽しいものではなかった。シャルルは仕事熱心だが凡庸で面白みのない男だった。田舎町での生活も退屈でつまらないものだった。商人のルウルーが屋敷を訪れたある日、夫の友人たちを招いて食事をした。その中に、若く聡明な男性レオンがいた。エマはレオンに現状が思い描いていた結婚生活ではないことを語り、幼い頃の思い出を語る。レオンはエマに言い寄り、エマも満更でもなかったが人妻であるという気持ちが一線を越えることを思いとどまらせた。レオンは村を去った。
気落ちして塞ぎこむようになったエマは、苛立ちを押さえられなくなる。そんなある日、侯爵が屋敷を訪れる。侯爵はボヴァリー夫妻を狩りに誘うがシャルルは仮に興味がなかった。侯爵はエマを連れて狩りに向かう。エマは侯爵に惹かれていく。侯爵もまたエマに愛情を抱き彼女を誘うが、エマは一度は思い止まる。しかし、侯爵が忘れて行った葉巻を届けたことがきっかけで、ついに一線を越えてしまう。侯爵との不倫の関係が始まったエマは活動的になっていった。侯爵の華やかな生活を目の当たりにし、自分も同じ生活をしたいとルウルーを通じて高価な服や家具を購入するようになる。
シャルルが足を動かせなくなった男の外科手術に挑むことになる。それはとても難しい手術で、公開で行われることになった。手術は成功したかに思えたが、術後の経過が悪く調べると診断を間違えて違う腱を切っていたことが分かる。エマはシャルルに幻滅し、侯爵の元へ移行とするが、侯爵はエマの前から去っていく。ルウルーへの売掛が増えて行き、エマは塞ぎこむ。ルウルーはルーアンでのオペラのチケット渡す。ルーアンでレオンと再会したエマ。エマはレオンと関係を持つ。屋敷へと戻ったボヴァリー夫妻の下に、シャルルの父の訃報が届く。ルウルーはルーアンでのレオンとの情事を持ち出し、シャルルが受け継いだ土地の権利書を手に入れたら支払いを待つと言う。エマ理由を突けてルーアンへ行き、レオンと再び関係を持つ。膨らみ続けた莫大な借金がシャルルに知られてしまう。エマはかつて関係を持ったレオンや侯爵に助けを求める……。
フローベールに19世紀半ばに書かれ、これまでに何度も映画化された「ボヴァリー夫人」。映像の美しさやミア・ワシコウスカの好演もあり、19世紀ヨーロッパの女性が抱えていたであろう閉塞感などが丁寧に描かれ、名作を簡単に知りたいと思う人にはいい映画ではなかったかと思う。満たされない日常から、不倫に走り、上級貴族の生活に憧れ浪費した挙句、破綻していく物語。世間知らずの娘の愚かさが招いた自業自得と言ってしまえばそれまでだが、人が情念に溺れ破滅へ足を踏み出していく、時代が変わっても繰り返される悲劇――人が逃れられない生の本質を描けているように思える。ただ、焦点をエマの現実逃避から破滅へと至る物語に絞っているため、原作にあった重厚な文学作品の映画化を期待すると、肩透かしを食らうだろう。
表面的にストーリーラインだけをなぞっていけば、エマという女性が、小説の中にしかない夢想と、結婚生活という現実の狭間で溺れ、破滅していく話でしかない。甘い結婚生活を夢見るエマの前に出てくるのは、決して悪人でも強権的ではないが俗物的で地味で面白みがない夫、エマの体だけが目当てで責任を取る気がない不倫相手、エマの心の隙に付け込みすべてを奪っていく悪辣な行商人――ステレオタイプな現実である。現実から逃れるために一時のロマンスや浪費で慰めても、その先に待っているのは、逃れられない更なる無慈悲な現実。身の程とか分相応という言葉で片付けるのは簡単かもしれないが、エマの行為ををただの浅はかな女の愚行と断じきれないのは、誰の胸の中にも現実を飛び越えたいという願望があるからなのかもしれない。