十一人の賊軍(2024年)

DATE
日本
監督 : 白石和彌
<主なキャスト>
政 : 山田孝之
鷲尾兵士郎 : 仲野太賀
赤丹 : 尾上右近
なつ : 鞘師里保
ノロ : 佐久本宝
引導 : 千原せいじ
おろしや : 岡山天音
三途 : 松浦祐也
二枚目 : 一ノ瀬颯
辻斬 : 小柳亮太
爺っつぁん : 本山力
入江数馬 : 野村周平
溝口加奈 : 木竜麻生
山縣狂介 : 玉木宏
岩村精一郎 : 浅香航大
杉山荘一郎 : 佐野和真
溝口直正 : 柴崎楓雅
溝口内匠 : 阿部サダヲ
……etc
【作品解説】
2024年11月に劇場公開された時代劇。昭和の名脚本家、笠原和夫氏が1960年代に実現できなかった企画の映画化作品。戊辰戦争のさなか、官軍と奥羽越列藩同盟の間で翻弄される新発田藩(現在の新潟県新発田市を中心に現在の下越地方の一部などを治めていた藩)を舞台に、時間稼ぎの捨て石とされた罪人たちを描く。
【戊辰戦争での新発田藩の裏切り(明治元年(1868年))】
幕末――。慶応3年(1867年)10月。反幕府派の公家と連携を取りながら倒幕の動きを進めていた薩摩藩、長州藩に倒幕の密勅が下される。ところが徳川幕府の15代将軍、徳川慶喜は倒幕の動きに対して機先を制し、京の二条城で大政奉還――将軍職と政権を朝廷に返上することを宣言する。大政奉還を宣言して政権を朝廷に返したとしても、朝廷には政権を担当する能力はなく、今後も徳川家が中心となって政権を担当することになるであろうという目論見であった。しかし、岩倉具視などの反幕府派の公家や薩摩藩・長州藩といった討幕派は、徳川家の息の根を完全に止める算段を立てていた。その為には、京都御所を旧幕府が警護し、天皇がその保護下にあるという状況は都合が悪かった。12月、薩摩藩は公家の岩倉具視と通じてクーデターを決行する。薩摩藩、広島藩、土佐藩、越前藩、尾張藩の藩兵が御所を取り囲み、御所の警備にあたっていた京都守護職の会津藩や京都所司代の桑名藩の藩兵を追い払い、討幕派によって御所は制圧された。そのうえで「王政復古の大号令」を発して天皇中心の新政権の樹立を宣言。徳川慶喜には混乱の責任を取って辞官納地――官位と徳川宗家400万石の返上が命じられた。しかし、慶喜の政治力は侮れるものではなく、武力による倒幕に反対の立場であった土佐藩主・山内容堂や越前藩主・松平春嶽らとともに巻き返しを図り、辞官納地は骨抜きとなった。
大政奉還によって、討幕派は武力による幕府討伐の大義名分を失った。しかし、徳川慶喜をはじめ幕府の主だった者たちが上洛していて不在となっていた江戸では、薩摩藩が相楽総三ら不逞浪士や無頼漢などからなる賊徒を使って江戸で火つけや辻斬り、強盗などの凶行を繰り返し行わせた。それは江戸の治安を悪化させ江戸市民の幕府に対する信頼を低下させると同時に、幕府に対する挑発であった。江戸の治安維持を担っていた庄内藩は新徴組を使い薩摩藩邸を見張らせ、凶賊の背後にいるのは薩摩藩の疑いを強くした。12月22日、23日には新徴組や庄内藩の屯所に賊徒が鉄砲を撃ち込み死者も出た。江戸に残った幕閣の強硬派の命令によって12月25日に庄内藩などが、三田の薩摩藩邸を焼き討ちにした。その報せは、大阪城にいた徳川慶喜にも伝えられ、朝廷と事を構えたくない慶喜にも薩摩藩の悪虐な行動に激高する大阪城の配下たちを押さえることはできず、もはや武力による解決しかなくなったことを悟った。慶応4年(1868年)元日、諸藩に薩摩を討つための挙兵を求める。1月3日、旧幕府軍と薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍が鳥羽伏見で激突する。数に勝る旧幕府軍と、武器商人を通じてイギリスから銃火器を購入していた新政府軍の戦いは、5日に新政府側に錦の御旗が翻ったことで決した。土佐藩や広島藩、越前藩など新政府側に属していながら日和見を決め込んで参戦していなかった諸藩も新政府軍として参戦を表明。敗走した旧幕府軍から淀藩、津幡も寝返り、旧幕府軍は戦線を維持することが出来なくなり、大坂へ撤退した。「朝敵」となったことを知った徳川慶喜は、大阪城の将兵には秘密に、老中・板倉勝静や会津藩主・松平容保などわずかな者を連れて6日夜に大阪城を抜け出し海路で江戸へ戻った。
11日夜半に品川沖に到着した慶喜は、翌朝江戸城に入る。新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督とした東征軍を送る。新政府軍と一戦交えることさえも視野に入れながら、思想的に近かった山内容堂や松平春嶽を通じて和平の工作を図るが、新政府軍の慶喜追討の意志を挫くことはできなかった。2月半ば、万策尽きた慶喜は、後事を陸軍総裁の勝海舟に託し、自らは恭順の意志を示すために上野寛永寺で謹慎生活に入った。恭順の意志を新政府軍に伝えるために3月9日に旗本、山岡鉄舟を駿河にいた大総督府に遣わし、参謀の西郷隆盛との会談を持たせた。東征軍による江戸城総攻撃は3月15日となっていたが、3月13日、14日に西郷と勝が江戸の薩摩藩邸で会見を持ち、江戸への総攻撃は回避されることになった。4月11日に徳川慶喜は謹慎していた寛永寺から水戸へと向かい、江戸城は無血開城され大総督府が接収した。江戸無血開城に不満を持ち、彰義隊を拠り所に結集していた旧幕府の不満分子は5月15日、上野戦争で10時間で壊滅させられた。
新政府は徳川慶喜追討と同時に、九条道孝を奥羽鎮撫総督に任じ東北へも兵を進めた。3月23日、奥羽鎮撫総督府は仙台に入った。新政府の最大の標的は京都守護職であった会津藩と江戸市中取締の任にあった庄内藩であった。関東への侵攻に戦力の多くを割いていた新政府軍は、奥羽諸藩の兵を動員して会津藩・庄内藩を屈服させようと考えた。幕末の動乱において、大藩の仙台藩伊達家は政局から距離を置く判断をしており、奥羽諸藩はほとんど蚊帳の外にあった。会津藩や庄内藩に恨みがあるわけでもなければ、出来たばかりの新政府や薩摩藩・長州藩のために命を懸ける義理もなかった。戦禍に巻き込まれる事を嫌った仙台藩・米沢藩が中心となって会津藩・庄内藩を救済を求める嘆願を行うが、奥羽鎮撫総督府の実権を握る長州出身の下参謀・世良修蔵によって無碍なく却下されてしまう。会津藩も、奥羽鎮撫総督府に謝罪文の提出はしたものの仙台藩・米沢藩の説得や奥羽鎮撫総督府の寛容な措置の約束があったにも関わらず、降伏勧告には応じなかった。奥羽鎮撫総督府は会津討伐の意志を強くし、仙台藩は官軍の威光をかさに着た奥羽鎮撫総督府の傍若無人な態度に嫌悪の念を募らせていた。4月20日、仙台藩士による世良修蔵の殺害事件にまで発展する。原因は、世良が秋田にいた同じく下参謀の大山綱吉に送った「奥羽諸藩は全て敵とみなすべし」という内容の密書が仙台藩の手に渡ったためであったという。4月22日に奥羽諸藩の重役が集まり、5月初め、仙台藩を中心に25藩による奥羽列藩同盟が結成され、新政府との対決は避けられないものとなった。5月半ばにに越後の長岡藩や新発田藩など6藩が加盟し、31藩で奥羽越列藩同盟が結成された。会津藩、庄内藩の救済のための同盟であるため、この2藩は含まれていない。
奥羽越列藩同盟に加盟した藩の全てが新政府と戦うことを望んでいたわけではなかった。中には周辺の大藩の圧力に屈して渋々加盟した藩もあった。現在の新潟県新発田市を中心に現在の下越地方の一部などを治めていた新発田藩もそんな一つであった。江戸時代を通じて外様大名の溝口家が治め、石高は5万石。 安政7年(1860年)に石高を見直し10万石となっている。譜代大名や親藩に囲まれた小藩の外様大名というふうにも見えるが、干拓や治水、新田開発に力を入れ、実際の石高は40万石にも上っていたという説もある。また越後の要衝である新潟港に接する位置にあり、その帰趨は新政府と同盟双方にとって少なからぬ関心事であった。当時の新発田藩主は十歳にも満たない溝口直正であった。鳥羽・伏見の戦いの後、新発田藩にも京の警護の兵を出すように命令が来る。江戸詰家老を総隊長に400の兵を上京させる。江戸に新政府軍が迫る中、藩主の身の安全のためや反新政府と見られるのを防ぐために直正を江戸から新発田藩に帰国させる。新発田藩は新政府よりの立場に立ちたかったものの、すぐに仙台藩から藩士が送りこまれ、動向に探りが入れられた。直正が帰藩したときも、周辺諸藩との軋轢を防ぐために会津経由の道を選んだ。旧幕府の残党などの組織や会津藩などに金を融通するなどして、奥羽諸藩との関係も悪化させないように努めた。しかし、奥羽諸藩らの圧力に抗しきれず同盟に加盟せざるをえなくなった。江戸を開城させたばかりの大総督府には、京都警備の時の江戸詰家老を通じて「米沢藩、仙台藩、庄内藩などの圧力に屈して同盟に参加したが勤王の意思は変わらない」という申し開きを行い、大総督府もそれを受け入れた。
5月に入ると新政府軍と越後長岡藩との交渉は決裂し、北越戦争が始まる。新発田藩にも同盟からの圧力があり、新発田藩は兵を出すような格好を見せつつも、新政府への弁明にも奔走する。同盟は新発田藩を本格参戦させるために藩主・溝口直正を人質にしようとしたが領民の抵抗もあり断念した。新政府軍も新発田藩を完全には信用していなかった。越後長岡藩を中心とした同盟軍は、5月29日に一度は長岡城を奪われるものの7月24日には奪還するなど新政府軍を相手に善戦する。7月25日に新政府軍は艦隊を差し向け新発田藩に上陸戦を開始。新政府軍への寝返りを決めた新発田藩は戦わずに開城し、7月28日、溝口直正は奥羽征討総督の仁和寺宮嘉彰親王に拝謁するために船で柏崎の本営に向かい、8月1日に拝謁を果たしている。上陸した新政府軍は新発田藩に駐留していた同盟軍を追い払い、7月29日、新潟町を占領し、同日には長岡城を再奪還した。同盟軍は寝返った新発田に憤り、現在の新潟県北東部にあった中条で新発田藩兵や新政府軍と交戦し、中条に火を放って撤退した。北越戦争は終結し、残存勢力は会津藩へと撤退した。新発田藩は、城下を戦火に焼くことを避けることができたものの、周辺地域には明らかな裏切行為と白眼視され、明治の時代になってもしこりを残すことになった。また、新政府軍も時流にあわせて態度を変える新発田藩を信用していなかった。その後の会津藩・庄内藩鎮撫の戦いでは、新政府軍は会津口、米沢口、庄内口の3つに分けて侵攻を行ったが、新発田藩には常に先鋒が課せられたという。また、新政府軍の兵士たちからも「新発田の腰抜け侍」と嘲笑あるいは嫌悪され、新発田藩兵たちは藩の名誉のために決死の覚悟で戦ったという。
【ストーリー】
慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発し、自らを官軍と名乗る薩摩・長州を中心とする新政府軍と、賊軍と断じられた旧幕府軍との戦いが各地で繰り広げられていた。東北、北陸、北関東の諸藩は、奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と戦っていた。戊辰戦争の激戦の一つである越後長岡藩での戦いは、越後の小藩、新発田藩にも波及しようとしていた。密かに新政府への寝返りを画策する新発田藩は、同盟からの出兵の要請をのらりくらりとかわしていたが、しびれを切らした同盟は態度を鮮明にするように新発田藩の首脳に迫っていた。長岡藩の救援のために同盟は軍勢を率いて新発田藩の城下町に入ってくる。同時に、新政府軍の軍勢も新発田藩へ迫っていた。このままでは城下で両軍が激突し、新発田の侍や町衆を戦いに巻き込み、城下町が焼き払われることになりかねない。家老の溝口内匠は、新発田が戦火に巻き込まれるのを避けるために城に通じる砦で官軍を足止めして時間稼ぎを図ることにする。
まだ平和な新発田で一つの事件が起こった。駕籠かき人足の政の妻・さだが侍に乱暴されたのだ。政は報復でその侍を殺害し、捕らえられる。罪人となり、磔にされて殺されそうになった政を、ノロという政は全く覚えのない少年が解き放つ。これ幸いに逃げ出した政だったが、すぐに捕らえられ、さらに苦しい殺され方をされることになってしまう。今、刑が執行されようとした時、直心影流の使い手で剣術道場の道場主である鷲尾兵士郎が助けに入る。兵士郎は新発田を守るため、溝口から直々に砦を守るように命じられたのだ。兵士郎は政を含めて10人の罪人を集めて決死隊を作る。10人の罪人は詐欺師だったり、密航者だったりエロ坊主だったりと様々な背景を持つ死刑囚であったが、1日砦を守り切れば無罪放免される、と約束される。罪人と共に戦う侍の中には、政が殺した侍の同僚の荒井や、その上司で溝口の娘の許婚の入江の姿もある。
砦に着くなり逃げ出そうとした政は、新政府軍との交戦のきっかけを作ってしまい、早々に縛られてしまう。罪人たちと侍たちの間にも諍いが絶えない。そんな中、火付けで死罪となり砦に送られた女郎のなつが侍の話を聞いてしまう。罪人たちは、事が済んだら処分される運命だというのだ。それをなつから聞いた政は激高し、侍に発砲し、一触即発の状況になる。家老と罪人の板挟みとなって悩んでいた入江は、罪人たちに謝罪し、家老に助命を求めることを約束し、政は不満だったがその場は収まる。予定通りにいけば撤退の狼煙が上がっている筈……という時が来ても、撤退の合図が来ず、罪人たちは苛立ちを募らせる。そこに、入江の許婚のかよが砦までやってくる。新発田城では、溝口が何とか同盟軍を追い出そうとしていたが、同盟軍に新政府軍への寝返りを気付かれてしまう。
【感想】
侍の時代が終わろうとしていた時代――戊辰戦争の最中、越後の新発田藩が新政府軍へ寝返った史実を下敷きにした歴史劇。そこに壮絶なアクションを絡めた豪快な時代劇に仕上がっている。アクションだけを見れば、一人で圧倒的多数の兵士たちを斬り伏せていく殺陣もあり、派手な爆破ありで、150分の物語ではあるが最後まで楽しめた。
ただ……最後まで見終わった感想は……どういう感想を抱けばいいのか分からなかった。無罪放免を目指して戦う罪人たち……だが、10人もいるせいでそれぞれの背景がちょっと語られるだけだからあまり感情移入ができない。とはいえ、主人公の政が何度も逃亡を図って、そのたびに砦の罪人たちに少なからず被害を与えておきながら、大した罰を受けていないところを見ると、思うところは皆同じなのだろう、ということはひしひしと伝わってくる。新発田も、同盟も、日本の未来だってどうだっていい。ただ、己が生き延びるため。そんな罪人たちと新発田の正義の板挟みになり、最後は新発田の正義に憤り、罪人たちと運命を共にする。新発田藩を守るために罪人や病人の命を無慈悲に切り捨てる家老には、最後は市井の者から町を戦禍から守ったことに感謝の言葉が述べられる。正義って何なのだろうと思わされた作品でもあった。
このサイトの中で、2019年に劇場公開された司馬遼太郎の「峠」を原作とした『
峠 最後のサムライ』を紹介している。この『十一人の賊軍』は、ある意味で『峠』の裏話の様な物語でもある。『峠』で戦争を望まないにもかかわらず同盟側について新政府と戦うことになった長岡藩の旗を、『十一人の賊軍』では新発田藩が新政府の恨みを長岡藩に押し付けるために利用する。『峠』で長岡藩に最後通牒を突き付ける岩村精一郎は、『十一人の賊軍』では物語の舞台となる砦を巡って長岡藩に対峙しているつもりで新発田藩の罪人たちと戦っている。『峠』では一度新政府軍に奪われた長岡城を長岡藩兵らによって再奪還するのは最大のクライマックスであり異形とし得描かれるが、『十一人の賊軍』では長岡城にいた山形狂介は、新発田藩が寝返り海からの侵攻が可能になると「長岡城に留まる必要はない」とあっさりと城を放棄している。歴史は一つであるが見方を変えると作家の様々な解釈が可能になる。歴史物語の醍醐味だと思う。