DATE
日本
監督 : 小泉堯史
原作 : 司馬遼太郎『峠』
<主なキャスト>
河井継之助 : 役所広司
おすが : 松たか子
お貞 : 香川京子
小山良運 : 佐々木蔵之介
山本帯刀 : AKIRA
徳川慶喜 : 東出昌大
岩村精一郎 : 吉岡秀隆
牧野雪堂 : 仲代達矢
……etc
目次 |
『峠 最後のサムライ(2019年)』の作品解説 |
キーワード『北越戦争(慶応4年(1868年))』 |
『峠 最後のサムライ(2019年)』のストーリー |
『峠 最後のサムライ(2019年)』の感想 |
原作は1968年に新潮社から刊行された司馬遼太郎の小説『峠』。大ベストセラーとなった小説『峠』は、当時歴史の陰に消えていた長岡藩家老、河井継之助にスポットを当て、一躍世間にその知名度を向上させるとともに、現在の河井継之助のイメージを定着させた作品である。『峠』は司馬遼太郎の複数の小説を原作にした1977年の大河ドラマ『花神(かしん)』の原作の一つであり、河井継之助を主人公にした映像作品は何度か制作されているが、『峠』単独での映画化作品はこれが初めてだという。最初は2020年秋の公開予定だったが、新型コロナ流行の影響のために幾度かの延期を経て2022年6月の公開となった。
慶応4年(1868年)――。年明け早々に始まった鳥羽伏見の戦いを皮切りに薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府と、旧幕臣や親幕府の諸藩による16か月にわたる内戦――戊辰戦争が起こった。大阪で開戦を迎えた最後の将軍、徳川慶喜は、戦況が劣勢になった上に「朝敵」の烙印を押されると秘かに大阪城を脱出して海路で江戸に逃げた。江戸に帰還した慶喜は後事を陸軍総裁に任命した勝海舟に託して上野の寛永寺に謹慎し、恭順を決め込んだ。新政府軍が江戸へと進撃するが、勝や山岡鉄舟らの尽力により最終的に江戸城は4月に無血開城となった。不満分子の拠り所となっていた彰義隊も5月15日にわずか1日で壊滅させられた。新政府軍はこれに並行して全国平定の戦いに乗り出す。東北での戦いの中心となったのは会津藩と庄内藩であった。
新政府は九条道孝を奥羽鎮撫総督に任じ、東北の諸藩に会津藩・庄内藩討伐の兵と軍資金を出すように命じた。できたばかりの新政府からの“命令”に東北の諸藩は大いに困惑すると同時に難しい立場になった。新政府軍の中心である長州藩は文久3年(1863年)の八・一八の政変では長州藩は尊王攘夷派の公卿とともに京から追放され、元治元年(1864年)の禁門の変では八・一八の政変の処分撤回などを求めて上京した長州藩の軍勢は、京の治安を守る京都守護職の会津藩らの兵と交戦し、あろうことか御所に発砲し、朝敵となって第一次長州征伐を受けた。その会津藩とともに長州藩と敵対したのは、今や新政府軍の中心にいる薩摩藩である。薩摩藩は裏で長州藩と手を結ぶと、相楽総三らの不逞浪士を使って江戸で辻斬りや銃撃、強盗、放火などを繰り返させて幕府を挑発し、江戸市中取締の任にあった庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件を引き起こさせ、徳川慶喜に武力衝突を決断せざるをえないところまで追い込んだ。それが今や官軍である。東北の諸藩には会津藩や庄内藩に恨みもないし、戦う理由もなければ、長州や薩摩のために兵を出す義理もなかった。
仙台藩や米沢藩が中心となって会津・庄内救済の嘆願をし、寛大な処分を求めて奔走するが、東北諸藩と新政府の溝は埋まらなかった。そんな中、奥羽鎮撫総督の下参謀、世良修蔵が仙台藩士らによって殺害される事件が起こり東北諸藩と新政府の対立は決定的となった。5月には仙台藩が中心となって東北の25藩による奥羽越列藩同盟が結成される。東北の諸藩の中で中立の立場を保とうとしたのが越後の長岡藩であった。長岡藩は表高は7万4千石の小藩ではあったが、実高は14万石の中規模な藩であった。この頃、藩政の中心にいた河井継之助は、戊辰戦争が始まると江戸藩邸を処分して美術品などの財産を売り払うなどして軍資金を作り、海外の武器商人から銃火器を購入した。長岡藩は、当時日本に3門しかなかった多銃身式の機関銃であるガトリングガンのうち2門を所持していた。長岡藩の中では、非戦・恭順派と抗戦派とで反論は二分されていた。新政府軍が迫る中、河井は5月2日に小千谷の慈眼寺において軍監の岩村精一郎と会談。会津藩を説得し調停役を担いたい旨の嘆願を行うとともに新政府軍の長岡藩内への侵入や戦闘を拒否した。会談はわずか30分ほどで決裂。後世の歴史家や歴史作家は、河井継之助の嘆願に耳を貸さず長岡藩を奥羽越列藩同盟側に追い込み開戦を避けられないものとした岩村の軽率さや熟慮のなさを批判的に記している。しかし、この開戦の責を一人岩村に押し付けるわけにはいかないだろう。奥羽越列藩同盟の側も、長岡藩を引き入れるために工作を行っており、新政府軍としては長岡藩を信用することは最初からできなかった。
かくして戊辰戦争最大の激戦とも言われる北越戦争が始まる。長岡藩は新政府軍が進駐していた榎峠を奪取する。新政府軍を相手に長岡藩をはじめとする同盟軍は奮戦し、戦局は膠着する。5月19日。新政府軍は信濃川を渡り長岡城下に奇襲を仕掛け長岡城を奪取する。しかし、新政府軍に城を放棄して退却する長岡藩兵を追撃する余裕はなかった。5月の終わり頃には越後沖の制海権は新政府軍に奪われていたが、態勢を整えた同盟軍は、奇襲を仕掛け7月24日には長岡城を奪還し、新政府軍は敗走する。しかし、この戦いで指揮を執っていた河井継之助は足を負傷する。新政府軍の攻勢を受けた新発田藩が寝返った。7月29日に補給のための重要な拠点とされていた新潟町が陥落。同じ日に長岡城は再び新政府軍に占領された。同盟軍の残存勢力は会津藩領に向けて退却を始める。しかし、河井継之助は足の傷がもとで破傷風を発症し、8月16日に死亡したとされる。
慶応3年(1867年)10月。徳川幕府を頂点とする江戸時代は250年以上にわたる太平の時代を終え、激動の時代を迎えていた。徳川幕府の15代将軍、徳川慶喜はこの難局を乗り切り、抜本的な改革を成し遂げるため――何よりも民のために大政奉還を宣言した。しかし、そんな慶喜の思いも空しく慶応4年、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争に突入する。三百余の諸藩は新政府と旧幕府のいずれにつくのか、否応なく迫られることになる。そんな中、越後の小藩である長岡藩では、前藩主の藩主の牧野雪堂の下で家老となった河井継之助が藩政の改革に取り組んでいた。江戸や長崎への遊学への経験があり、深い知見を持っていた河井は、スイスのような武装中立の理想を持っていた。
戊辰戦争の火は東北にも迫っていた。藩論も恭順か抗戦かに二分されていた。妻のおすがの前では自らの難しい立場をおくびにも出さず酒を?み、つかの間の幸せをかみしめる河井。先見的な思想を持ち、武士の時代の終わりを感じている河井だったが、徳川譜代の長岡藩の藩士という枠組みや立場から逃れることができず、侍としての義を貫くことを捨てることはできなかった。夜道で襲撃してきた恭順を主張する武士に対し、河井は憤りをあらわにする。
慶応4年5月。長岡にほど近い小地谷まで新政府軍が迫っていた。河井は慈眼寺を訪れ、新政府軍監、土佐藩の岩村精一郎と会談を持った。牧野雪堂からの嘆願書を差し出し、平和解決のための調停役を申し出る河井。しかし、岩村は新政府軍に兵も出さない、上納金も出さない、それでいて嘆願書を受け取れという河井に激怒する。これをただの時間稼ぎと決めつけた岩村は、「帰って戦支度をせよ」と追い返す。民を守るため、戦争を避けることをあきらめなられない河井は慈眼寺をはなれず何度も謁見を訴えるが、岩村は何としても追い返せと命じる。兵たちに槍を突き付けられ戦が避けられないことを悟った河井は、奥羽越列藩同盟に加盟し、北越戦争を開戦させた。家を焼かれ呆然とする領民の老人の姿に、心ならずも民を戦火に巻き込んだことを悔やむ河井。新政府軍の苛烈な攻勢が長岡城に迫り、その防衛に自らガドリングガンを操作し、新政府軍と戦うものの劣勢は免れず、城を捨てて退却する決断を下す。しかし、河井は反抗をあきらめたわけではなかった。
北越戦争に散った長岡藩家老、河井継之助の最後の数か月に焦点をあてて描いた作品。卓越した先見力を持ち、武士の時代の終わりを予見し、藩という枠組みもなくなってしまうことも分かっていながら、会津藩や庄内藩、東北諸藩に対する新政府の姿勢に憤り最後まで武士としての義にこだわった、傍から見ると矛盾に満ちた――そういう生き方をするしかなかった時代だったと言われればそれまでかもしれないが――生き方を選んだ男を、役所広司さんが見事に演じ切っている。
河井継之助といえば武装中立の思想を持って長岡藩を幕末の動乱から救おうとした人物とされている。その思想は江戸で佐久間象山らの傑物に学び、古今東西の知識――特に西洋の情報が限られる中、入手できるだけの西洋事情に関しての書物を書き写し、長崎への遊学――などを通じて確立されていったものなのだろう。幕府も藩も侍も、あるいは朝廷も、そう遠くないうちに無くなるだろうと思っていた男が、そういった思想を確立していく過程にも非常に興味があるが構成上そのあたりの話は端折られている。
劇中、永世中立国のスイスという言葉を出して中立思想を語るが、正直、この台詞のせいで個人的にはこの映画の河井が先見性ある人物に思えなくなった。スイスは現在でこそ、金融や観光、時計製造などの産業を持つ国として知られるが、中・近世においては主要な産業とよべるものがない国であった。九州より少し広い国土の大半がアルプス高原の内陸地という厳しい環境に鍛えられた男たちは傭兵としてヨーロッパ各地の戦場に赴いた。スイスの唯一に近い産業として傭兵の輸出が行われた結果、時に同胞同士で殺しあわなければならない場面もあったという。さらに、フランス王国、イタリア王国、オーストリア帝国、神聖ローマ帝国(ドイツ)といった当時の大国に囲まれている。大国からしてみればスイスの険しい国土は攻めとってもあまり益がなく、ヨーロッパ最強の傭兵集団を抱えるスイスは敵対する国の味方に付かれるとかなり厄介。そんな血の歴史と地政学的な要望があり、1815年のウィーン会議で永世中立国としてのスイスの立場が認められた。地理的な要因も歴史的経緯を無視して、そのまま長岡藩に当てはめて成り立つと考えるのは無理があるだろう。河井継之助の構想が現実を無視したただの観念的な理想に過ぎなかったのか、現実的な構想であっても早すぎた理念であったのか、河井が新しい政府の中でその辣腕を振るうことができなかった今、それを知るすべはないのだろう。