DATE
日本
監督 : 松原信吾
<主なキャスト>
河井継之助:中村勘三郎 (18代目)
すが:稲森いずみ
牧野安子:京野ことみ
稲葉隼人:伊藤英明
小林虎三郎:佐野史郎
川島億次郎:吹越満
小山良運:火野正平
山本帯刀:田中実
坂本龍馬:唐沢寿明
岩村精一郎:中村獅童 (2代目)
……etc
目次 |
『河井継之助~駆け抜けた蒼龍~(2005年)』の作品解説 |
キーワード『北越戦争(慶応4年(1868年))』 |
『河井継之助~駆け抜けた蒼龍~(2005年)』のストーリー |
『河井継之助~駆け抜けた蒼龍~(2005年)』の感想 |
2005年12月27日に日本テレビ系で放送された時代劇のテレビスペシャル。十八代目・中村勘三郎襲名記念大型時代劇として制作された。老中を輩出することもあった譜代の名門、牧野家が治める長岡藩で、幕末期の藩政改革に奔走し、戊辰戦争最大の激戦の一つと言われる北越戦争においては長岡藩を主導し新政府軍を大いに苦しめた長岡藩家老・河合継之助の半生を描いている。
慶応4年(1868年)――。年明け早々に始まった鳥羽伏見の戦いを皮切りに薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府と、旧幕臣や親幕府の諸藩による16か月にわたる内戦――戊辰戦争が起こった。大阪で開戦を迎えた最後の将軍、徳川慶喜は、戦況が劣勢になった上に「朝敵」の烙印を押されると秘かに大阪城を脱出して海路で江戸に逃げた。江戸に帰還した慶喜は後事を陸軍総裁に任命した勝海舟に託して上野の寛永寺に謹慎し、恭順を決め込んだ。新政府軍が江戸へと進撃するが、勝や山岡鉄舟らの尽力により最終的に江戸城は4月に無血開城となった。不満分子の拠り所となっていた彰義隊も5月15日にわずか1日で壊滅させられた。新政府軍はこれに並行して全国平定の戦いに乗り出す。東北での戦いの中心となったのは会津藩と庄内藩であった。
新政府は九条道孝を奥羽鎮撫総督に任じ、東北の諸藩に会津藩・庄内藩討伐の兵と軍資金を出すように命じた。できたばかりの新政府からの“命令”に東北の諸藩は大いに困惑すると同時に難しい立場になった。新政府軍の中心である長州藩は文久3年(1863年)の八・一八の政変では尊王攘夷派の公卿とともに京から追放され、元治元年(1864年)には八・一八の政変の処分撤回などを求めて上京した長州藩の軍勢は、京の治安を守る京都守護職の会津藩らの兵と交戦し、あろうことか御所に発砲し、朝敵となり、その後第一次長州征伐を受けることになった(禁門の変)。その会津藩とともに長州藩と敵対したのは、今や新政府軍の中心にいる薩摩藩である。薩摩藩は裏で長州藩と手を結ぶと、相楽総三らの不逞浪士を使って江戸で辻斬りや銃撃、強盗、放火などを繰り返させて幕府を挑発し、江戸市中取締の任にあった庄内藩による薩摩藩邸焼き討ち事件を引き起こさせ、徳川慶喜に武力衝突を決断せざるをえないところまで追い込んだ。それが今や官軍である。東北の諸藩には会津藩や庄内藩に恨みもないし、戦う理由もなければ、長州や薩摩のために兵を出す義理もなかった。
仙台藩や米沢藩が中心となって会津・庄内救済の嘆願をし、寛大な処分を求めて奔走するが、東北諸藩と新政府の溝は埋まらなかった。そんな中、奥羽鎮撫総督の下参謀、世良修蔵が仙台藩士らによって殺害される事件が起こり東北諸藩と新政府の対立は決定的となった。5月には仙台藩が中心となって東北の25藩による奥羽越列藩同盟が結成される。東北の諸藩の中で中立の立場を保とうとしたのが越後の長岡藩であった。長岡藩は表高は7万4千石の小藩ではあったが、実高は14万石の中規模な藩であった。この頃、藩政の中心にいた河井継之助は、戊辰戦争が始まると江戸藩邸を処分して美術品などの財産を売り払うなどして軍資金を作り、海外の武器商人から銃火器を購入した。長岡藩は、当時日本に3門しかなかった多銃身式の機関銃であるガトリングガンのうち2門を所持していた。長岡藩の中では、非戦・恭順派と抗戦派とで反論は二分されていた。新政府軍が迫る中、河井は5月2日に小千谷の慈眼寺において軍監の岩村精一郎と会談。会津藩を説得し調停役を担いたい旨の嘆願を行うとともに新政府軍の長岡藩内への侵入や戦闘を拒否した。会談はわずか30分ほどで決裂。後世の歴史家や歴史作家は、河井継之助の嘆願に耳を貸さず長岡藩を奥羽越列藩同盟側に追い込み開戦を避けられないものとした岩村の軽率さや熟慮のなさを批判的に記している。しかし、この開戦の責を一人岩村に押し付けるわけにはいかないだろう。奥羽越列藩同盟の側も、長岡藩を引き入れるために工作を行っており、新政府軍としては長岡藩を信用することは最初からできなかった。
かくして戊辰戦争最大の激戦とも言われる北越戦争が始まる。長岡藩は新政府軍が進駐していた榎峠を奪取する。新政府軍を相手に長岡藩をはじめとする同盟軍は奮戦し、戦局は膠着する。5月19日。新政府軍は信濃川を渡り長岡城下に奇襲を仕掛け長岡城を奪取する。しかし、新政府軍に城を放棄して退却する長岡藩兵を追撃する余裕はなかった。5月の終わり頃には越後沖の制海権は新政府軍に奪われていたが、態勢を整えた同盟軍は、奇襲を仕掛け7月24日には長岡城を奪還し、新政府軍は敗走する。しかし、この戦いで指揮を執っていた河井継之助は足を負傷する。新政府軍の攻勢を受けた新発田藩が寝返った。7月29日に補給のための重要な拠点とされていた新潟町が陥落。同じ日に長岡城は再び新政府軍に占領された。同盟軍の残存勢力は会津藩領に向けて退却を始める。しかし、河井継之助は足の傷がもとで破傷風を発症し、8月16日に死亡したとされる。
戊辰戦争が終わった後の越後の長岡。旧松代藩士、稲葉隼人が河合継之助の墓に参るが、墓は無残に破壊されていた。居合わせた継之助の妹から、河井継之助は長岡を戦争に巻き込んだ張本人と忌み嫌われていることを聞かされる。しかし、継之助は戦争を回避するために懸命になっていたことを隼人はよく知っていた。
それは新しい時代が目の前に迫っていたがまだ幕藩体制が続くことを誰も疑っていなかった時期。藩政改革のために若手からも意見を聞こうという藩主の下、継之助は頭角を現していた。親戚の小林虎三郎、親友の川島億次郎、山本帯刀など、藩の優秀な人材たちとの論戦を通じ、藩の在り方を問う継之助は、藩の役に立つ生きた学問を求めて江戸への遊学や豊前松山の陽明学者で財政の達人として知られる山田方谷に学び、さらに長崎まで足をのばし自身の考えを形成していく。稲葉隼人と出会ったのもそんな中でのことだった。幕府の大老、井伊直弼が暗殺され、幕府の権威が失墜していく中、長岡藩が幕府と薩摩、長州を中心とする倒幕派との対立に巻き込まれていくのは必至の状況になっていた。
譜代大名として幕府の要職にあった長岡藩は佐幕派の会津とも深い付き合いにある。将軍、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いの最中、大阪城を逃げ出し、錦の御旗を掲げた討幕軍は江戸へと迫っていく。諸藩が次々ともはや新政府軍となった討幕側に寝返っていく中、河井継之助の意見は藩を強くして武装中立の姿勢を貫くことだった。むろん、討幕軍につくべきとする意見も、会津ら奥羽連合とのこれまでの交わりを忘れてはならないという意見もある。藩の意見がまとまらない中、新政府軍が奥羽征伐に乗り出す。新政府軍の軍監、岩村精一郎と、越後小千谷の慈眼寺で会談を持つも、恭順か否かのみを問う岩村精一郎は継之助の嘆願書を受け取らず話にも耳を傾けず一方的に席を立ち、会談は物別れに終わる。それでも、戦を避けたい継之助は上田藩本陣、松代藩本陣を訪ねて新政府との交渉継続の力添えを求めるが、門前で追い返されてしまう。自分の名を呼ぶ河井継之助の声を聞きながら、稲葉隼人はただ唇をかみしめるよりなかった。そして、戦争が始まった――。
河合継之助の半生を描いた作品。前半はやや駆け足で河合継之助の歩みが描かれ、後半でクライマックスの北越戦争が描かれる。年末の大型時代劇ではよくある物語構成かもしれないが、物語自体はしっかりしている感じだった。しかしその生涯を描くのに2時間半は短すぎたというのが最初の感想。河井継之助の歩みをぶつ切りにした感じで、河井が幕府の側でも、薩長の側でも、どちらにも与しない武装中立の思想、そしてそのためには藩を強くしなければならない、という考えを形成するに至る過程が見えてこない。
この作品を見終わり、彼の敗因は何なのだろうと考えた。劇中の河合継之助は何となく好戦的な印象を受ける。正しさを主張するためなら、相手とぶつかることも厭わない。もちろん彼の合理的な思想、正論を理解してくれる者はたくさんいた。劇中でも河合継之助の友人でありよき理解者として描かれている家老の山本帯刀は、史実でも河合継之助の藩政改革に協力的で、山本家の知行石を1300石から400石へ減石することにまで同意している。しかし、全ての者がそれを理解できるとは限らないだろうし、あるいは理解したとしても協力してくれるとは限らないだろう。そういった人間を相手にする価値なしと切り捨てるのも、ただただ正論を振りかざし叩き潰していくのも、正しい道とは思えない。劇中、小林虎三郎の家が火事に遭い、その見舞いに行った継之助に虎三郎が、正論をただただぶつけるだけでは敵を増やすだけだと忠告する。継之助は虎三郎が気落ちせず忠告めいたことまで言ってくることを涙を流して喜ぶが、その内容を顧みることはない。その結果が慈眼寺での新政府軍の軍監、岩村精一郎との会談決裂ではなかったか。ただただ恭順か敵対かの二択のみを問う岩村が相手では、戦争を避けたいという想いも、そのための正論も何ら意味をなさないものだった。何かを成すためには根回しであったり遠回りであっても味方を増やす努力というのは避けては通れない労力なのかもしれない。理想を語るのは簡単かもしれないが、それを実現するのがいかに難しいかと思わされる。