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日本
監督 : 山田尚子
原作 : 古川日出男(翻訳)『平家物語』
<主な声の出演>
びわ : 悠木碧
平重盛 : 櫻井孝宏
平徳子 : 早見沙織
平清盛 : 玄田哲章
後白河法皇 : 千葉繁
平時子 : 井上喜久子
平維盛 : 入野自由
平資盛 : 岡本信彦(幼少期:小林由美子)
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目次 |
『平家物語(2022年)』の作品解説 |
キーワード『平家物語』 |
キーワード『壇ノ浦の戦い(1185年)』 |
『平家物語(2022年)』のストーリー |
『平家物語(2022年)』の感想 |
時は平安末期――。武士階級がその軍事力を背景に台頭した時代。その中で栄華を極めながら、没落し滅んでいった平家の盛衰を描いた『平家物語』。鎌倉時代に成立し、数百年にわたり琵琶法師などによって語り継がれ、多くの文学や芸能にも影響を与えてきたてきた大古典が、令和の時代にアニメーションで蘇る。作家・古川日出男氏による現代語訳『平家物語』を底本に、“びわ”という架空の少女を主人公に、彼女と平家の人たちの交流を通して、時代に翻弄されながら懸命に生きた人たちを描いている。2021年9月にFODで先行配信された後、2022年1月から3月にかけてフジテレビの深夜アニメ枠『+Ultra』などでテレビ放送された。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し。
猛き者も遂には滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。
平家物語といえば、この有名な文章を思い出し、そらんじられる人も多いだろう。武士として初めて政治の実権を握った平氏だったが、奢り高ぶり京の公卿たちの恨みを買い、蜂起した源氏によって追い落とされ、壇ノ浦で悲劇的な最期を遂げる物語。作者や成立年代は、はっきりとは分かっていないが、少なくとも延慶2年(1309年)以前には成立していたと考えられている。成立した頃は『平家物語』は『治承物語』と呼ばれていたとも言われており、ある史料から、仁治元年(1240年)以前であるとも言われる。
『平家物語』は他の古典と違い、読み継がれてきたものではなく、琵琶法師によって語り継がれてきたものだった。琵琶法師というと怪談の耳なし芳一に出てくる芳一を思い受かべる人が多いかもしれない。琵琶法師は琵琶を用いた弾き語りを行う盲目の僧たちであった。日本での起こりは奈良時代に端を発するとも言われ、仏道の説法を行う下位の宗教者であったという。鎌倉時代に平家物語が成立すると、主に仏説を行う琵琶法師と、平家物語を語る琵琶法師とに分かれたという。後者の琵琶法師は廻国の芸能者であり、紹介者を通して大名の屋敷などで芸を披露するようになっていった。
琵琶法師によって語られる物語であることが平家物語に他の古典にない特徴を与えた。まず読み書きができない人たちにも広く流布することになった。また読み手によって文章や内容に変化が生じることになった。その結果、様々な異本が生まれることになった。一般的に平家物語は平氏が強大な権力を得るようになってから壇ノ浦での平家の滅亡とその戦後処理・戦争で捕虜になった人や生き残った人たち、勝者となった人たちの後日談までを描いた全12巻、あるいは「潅頂(かんじょう)の巻」という壇ノ浦の戦いで命を落とした安徳天皇の母・建礼門院(平徳子)を後白河法皇(安徳天皇の祖父)が訪ね言葉を交わす話が追加された13巻であるが、異本の一つである『源平盛衰記』は48巻にも及ぶ長大な物語となっている。
平氏の祖先は桓武天皇である。血筋から言えば卑しいわけではなく、武門の者としては清和源氏と並ぶ名門であった。しかし、武士そのものが軽んじられていた平安時代。武功を立ててもなかなか官位が上がらず、武家としての威勢も源氏に押されがちであった。平氏一族の中で承平天慶の乱(平安時代中期に起こった瀬戸内海での藤原純友の乱と関東での平将門の乱)で戦功をあげた平貞盛の四男・平維衡を祖とする伊勢平氏。その中でも平正盛からなる系統が平家物語の主役である。伊勢平氏として初めて殿上の間に昇ることを許された平忠盛(平正盛の嫡男)の息子、平清盛の時代に平氏は最盛期を迎える。保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)で勝者となり、源氏を追い落とした平家の強大な軍事力を、朝廷も軽んずることはできなくなり清盛は武家の第一人者として軍事・警察権を掌握し、遂には太政大臣にまで昇り詰める。後継者として嫡子・重盛に棟梁の座を譲り、身内の婚姻を通じて天皇家、摂関家とのつながりを持ち、日宋貿易と日本の半分もの膨大な荘園経営を通して蓄えた富を持ち、平家の将来も安泰かと思われた。
しかし治3年(1179年)、平重盛と清盛の娘の盛子(摂政・近衛基実の妻)が相次いで死去。院政を敷いていた後白河法皇と平清盛の対立が一気に表面化する。清盛は後白河法皇を事実上の幽閉状態に置いた。治承4年(1180年)に高倉天皇はわずか1歳と2ヶ月の安徳天皇に譲位し院政を敷いたが、安徳天皇の母は清盛の娘の徳子であり、事実上平氏の傀儡政権であった。高倉天皇はそれから半年ほどで病に倒れ、ほどなく崩御した。平氏に対する不満は地方の武家勢力やこれまでいがみ合っていた武装した寺院勢力を反平氏で結集させることになった。同年4月、後白河法皇の三男・以仁王が挙兵。以仁王は南都の寺院勢力を頼って興福寺に向かうが追討軍によって討たれ、反乱は短期間のうちに終息した。しかし、以仁王が全国の源氏に送った平氏追討の令旨(天皇以外の皇族が発した命令)によって8月に源頼朝、9月に木曽義仲らの反平氏勢力の旗揚げが始まる。10月に平維盛(平重盛の嫡男)を総大将とした5万の大軍で源頼朝を討とうとするものの、宇治川の戦いでは水鳥の羽音を奇襲と勘違いして戦わずして総崩れになった。これによって武装した寺院勢力も不穏な動きを見せ始める。平知盛、平重衡らの将たちが奮戦し、勝利を重ねるもの、反平氏の動きは収まらず、平氏の勢力下であった西国でも反乱が相次いだ。そんな中、治承5年(1181年)閏2月に清盛は64歳で熱病でこの世を去った。
清盛の死後、平氏の棟梁として三男・平宗盛が事態を打開しようと奮闘するが、相次ぐ反平氏の反乱に対応できず、後白河法皇の策謀に翻弄されて院政方の復権を許してしまう。寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いと篠原の戦いで、木曽義仲によって平氏軍が壊滅するほどの敗北を喫した。義仲軍が都に迫る中、平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を離れ、九州に逃れた。その後、都に入った木曽義仲と後白河法皇の間で対立が起こり、後白河法皇は源頼朝に義仲追討の院宣を出す。この混乱に乗じて平氏は摂津国(現在の兵庫県南東部)福原まで復帰。瀬戸内海、中四国、九州と支配下に置き、数万の騎兵で都の奪還を企てるほど勢力を回復していた。後白河法皇は平家によって奪われた三種の神器を奪還し平家追討を命じる院宣を源頼朝に出した。これを受けて源範頼、源義経らに率いられた源氏軍によって、平氏は一の谷で敗れて四国に逃れ、さらに1年後に屋島で敗北し四国の勢力を失った。平範頼によって九州も抑えられた平氏は、瀬戸内海を転々とした後、周防の彦島に集結した。
元暦2年3月24日――。源氏は海戦に弱かったが、摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて、八百余隻の船舶を用意して関門海峡の壇ノ浦に平氏軍と対峙した。平氏軍の船舶は五百余隻であったと言われる。さらに、平範頼の率いる三万の兵が陸上に展開し、平氏の退路を断つとともに陸から弓矢による支援を行ったとされる。兵や船の数は劣っていたが、平氏は海戦に長けており、海を味方につければ平氏にも源氏を撃破するチャンスはあった。壇ノ浦の戦いについて、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』では簡潔に記されるのみで、詳細な戦いの推移を記していない。戦いの推移は『平家物語』『源平盛衰記』といった史料的には難がある軍記物語に頼るよりない。平家物語では平氏側の総大将となった平知盛は重要な人物が乗りこむ大型の唐船には兵を潜ませておき、これを囮に鎌倉方の船舶をおびき寄せ挟み撃ちにしてして叩く作戦を立てていたという。しかし、そのその作戦も、戦いの最中に裏切者が出て源氏側に知られることとなった。また大正3年(1914年)に黒板勝美東京帝国大学教授が著書の『義経伝』で提唱した関門海峡の潮の流れの変化が壇ノ浦の戦いの勝敗を決したという説が広く知られている。その説によると戦いは午の刻(12時ごろ)から申の刻(16時ごろ)に行われ、潮流が東向きだった時間帯は平氏優勢に戦いは推移し、西向きになると形勢は逆転、源氏に勝利が舞い込んだという。
この時8歳の安徳天皇や平家の女たち――その中には二位の尼(清盛の未亡人・時子)や安徳天皇の母・建礼門院の姿もあった――を集めた船に知盛がやってきた。「間もなく、世にも珍しい東男が見られますぞ」という言葉に最期を悟った二位の尼は安徳天皇を抱いて「海の底の都へ参りましょう」と言ってから飛び込み海中に没した。侍女たちもこれに続く。建礼門院も焼き石と硯を袂に入れて飛び込んだが、「安徳天皇や建礼門院、三種の神器はどんな犠牲を払ってでも救出せよ」と源氏の将兵は命じられており、女たちが飛び込むのを見た源氏の船が全速力でこぎ寄せて救助に当たり一命は救われた。平家の武将たちも次々と海に飛び込んだ。総大将の知盛はもしも自分が死にきれず浮かび上がったら矢で射殺すようにと家来に命じて飛び込んだという。平氏の棟梁、平宗盛は泳ぎが達者であったため死にきれず捕らえられ捕虜となった。その後、鎌倉の頼朝のもとに送られた後、京に送還され斬首となったとされる。
平安時代末期。朝廷の要職、官吏に一族の多くが登用され、諸国の領地の半分を支配下におさめ、まさに平家は栄華を極め、この世の春を謳歌していた。「平家に非ずば人に非ず」などと言い出す者もいる始末。平家の栄達の中心にいるのは平清盛。今は出家して入道となり、棟梁の地位を嫡男・重盛に譲っていたが、今は福原に新たな日宋貿易の拠点となる街を造るべく精力的に行動していた。そんな、清盛の――平氏の傍若無人な専横ぶりについて、重盛は大きな不安や憂いを抱えていた。そんな折、重盛は不思議な少女“びわ”と出会う。
びわは、琵琶法師の父親とともに諸国をめぐっていたが、平家の禿と侍たちの横暴なやり方への不満を口にしたために殺されそうになった。それを庇った父親を目の前で殺され、平家に憎しみを抱いていた。重盛に恨みの言葉をぶつけ「お前たちはもうじき滅びる」と呪いにも似た言葉を投げかけるびわ。びわには未来を見ることができた。重盛もまた、他の者には見えないこの世を彷徨う死者を見る目を持っていた。びわの不幸を知った重盛はびわに謝り、彼女を自分の屋敷に逗留させることにした。重盛の屋敷で、彼の息子の維盛、資盛、清経たちや、重盛の妹の徳子、白拍子の祗王など平家と関わった人たち、そして清盛――そういった人物たちと出会い、接するようになる。
清盛は徳子を高倉天皇のもとに入内させ、さらなる栄華を求めるようになる。平家の増長はますますひどくなっていった。それに比例して朝廷の公卿たちの反平氏の機運も強くなっていった。そのことに重盛は胸を痛め、度々清盛を諫めていたが、ついに鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる平家打倒の企てが密告により発覚する。清盛は関わった者たちを処分するとともに、首謀者は後白河法皇であるとして幽閉しようとするが、重盛の命を賭した諫言によって思い止まる。しかし、鹿ケ谷の陰謀には重盛の妻の身内も関わっていたため、重盛は面目を失い、平家での発言力も大きく低下することになった。徳子が皇子を産むという喜ばしい知らせもあったが、天災や重盛の妹の盛子の死などの不幸も相次ぎ、重盛は不安を募らせる。そして、維盛とびわとともに熊野参拝を行い、帰京したのち病に倒れ息を引き取る。その死に立ち会ったびわは、重盛の死者を見る眼を引き継いだ。
重盛の死によって清盛も力を落としていると見た後白河法皇らによる巻き返しが始まった。この政変に、清盛は激怒し、兵を率いて京の公卿や反平氏勢力への粛清が始まる。もはや止める者のいなくなった清盛の暴走は、後白河法皇の幽閉、高倉天皇を退位させ幼少の徳子の子を安徳天皇として即位させるに至る。しかし、もはや反平氏の動きは止まらなかった。以仁王の挙兵、さらには源頼朝や木曽義仲といった源氏勢力の蜂起が相次ぐ。そんな中、びわは資盛に追い出される形で平家を離れ、生き別れた母を探す旅に出る。びわは自分には未来が見えても何もできないと嘆いていたが、その旅の中で平氏の生き様やその最期を後世に語り継ぐことを心に決める。
古くから親しまれてきた平家物語だが、自分が小学生の時の国語の授業では「祇園精舎の鐘の声〜」からなる数行をさらりと読んだだけだった。教師によっては丸暗記させて皆の前で発表させたりしたかもしれないが、それで平家物語に関心を持った人がどれほどいただろう。平家物語はこれまでにも幾度か映像化されており、NHKの大河ドラマでは1972年に吉川英治が平家物語をはじめとした複数の古典をもとに書き上げた歴史小説『新・平家物語』を原作に、同名で映像化されている。個人的には同じNHKで同じ吉川英治の原作をもとにした1993年から1995年にかけて放送された人形劇が印象に残っている。
800年にわたり語り継がれてきた平氏の盛衰の物語を、アニメーションという形で現代に新たな息吹を吹き込んだこの作品。透明感あふれるアニメーションで描かれる平安時代の京と、実力派声優による悲喜こもごもの群像劇。貴族たちの時代から武士の時代へと変わろうとする時期。自分たちはその結末を知っているが、知っているが故に、確かにそこに彼らが生き、滅びに向かって突き進みながら最後まであがこうとする姿に悲しさを覚える。1クール11話でも平家物語を描ききるには足らず、登場できなかったキャラクターも端折ったエピソードも多々あったが、時折挿入される主人公の琵琶の声を演じた悠木碧による弾き語りなど見どころも多く、平家物語そのものにも興味を抱かせてくれるとともに、新たな視点を与えてくれた作品だったと思う。