火刑台上のジャンヌ・ダルク(1954年)
DATE
GIOVANNA D'ARCO AL ROGO/イタリア・フランス
監督 : ロベルト・ロッセリーニ
<主なキャスト>
イングリッド・バーグマン
テュリオ・カルミナティ
……etc
【作品解説】
1935年にフランスの作曲家ネオゲルが作曲したオラトリオ(日本では聖譚曲(せいたんきょく)と訳される、17世紀初頭から18世紀半ば頃の音楽(パロック音楽)を代表する楽曲形式)という舞台作品を、1954年にロベルト・ロッセリーニ監督が映画化した作品。主演のイングリッド・バーグマンは、ジャンヌ・ダルクに思い入れがあったらしく、戯曲「ロレーヌのジャンヌ」や1948年にその映画化作品である「ジャンヌ・ダーク」でもジャンヌ・ダルクを演じている。「ジャンヌ・ダーク」はイングリッド・バーグマンにとって不満の残る作品だったと伝えられ、「火刑台上のジャンヌ・ダルク」で再びジャンヌ・ダルクに挑んでいる。
【ジャンヌ・ダルク(1412年?〜1431年)】
14世紀から15世紀にかけて、アキテーヌの領有問題やフランス王位継承問題などを端緒に、イングランドとフランスの間で戦争が起こった。一般には1337年から1453年まで、長短の休戦を挟みながらの戦争であった。この頃はヨーロッパでは王位継承や領土問題が起こったらローマ教皇へ仲介を求めるのが通例だったが、この頃のローマ教皇はフランスの監視下にあり、フランス人の教皇であったため、イングランドにとって公正な仲裁者であることは期待できなかった。さらに14世紀後半に教会大分裂の時代を迎え、ローマ教皇に国王間の対立を調停する能力は失われていた。
また、14世紀半ばのペストの大流行、イングランド、フランスの両国で発生した農民の反封建闘争などが重なり、戦争の長期化を招いた。そもそも、イングランドはユーラシア大陸にアンジュー、ノルマンディー、アキテーヌといった領地を有していた。フランスの領域内にあり、フランス国王に与えられた形になっていたため、イングランド国王はフランス国王に臣従しなければならなかった。大陸からイングランドの勢力を駆逐したいフランス国王と、大陸にさらなる領土を求めるイングランドと、長年対立関係にあった。そこにフランスの王位継承問題が絡み、自らにフランス王位継承権があるとイングランド国王エドワード3世が遠征を開始した。
時に英仏百年戦争と呼称されることがあるがイングランドとフランスという二つの主権国家同士の戦争としてみるとこの戦争の本質を見誤る。あくまでもフランスの領主が二派に分かれて争った戦争であった。
百年戦争では数々の英雄がその名を残したが、その中で最も有名なのが、16歳か17歳という若さでフランスの軍を率いて勝利をもたらした少女ジャンヌ・ダルクだろう。当時は、“La Pucelle”という風に呼ばれていたという。今でこそ、“乙女”と訳されるようだが、当時のニュアンスではせいぜい“娘さん”という程度のものだったみたいである。彼女が、救国の聖女だったのか、田舎出の女傭兵にすぎなかったのかは意見の分かれるところだが、百年戦争の後は開放したオルレアンや生地ドンレミの村の近くで語り継がれる程度の忘れられた存在となっていた。それを19世紀にナポレオンが救国の殉教者として大々的にPRし、19世紀半ば以降、詳細な研究が表に出るようになり多くの伝記作家によってジャンヌ・ダルクが描かれることになる。
1412年頃にロレーヌ地方のドンレミという小さな村で生まれたジャンヌは、信仰心の厚い両親に育てられ、信仰心厚く育った。13歳のときに初めて神の言葉を聴き、フランスを救えという声に従い王太子シャルルに会うためにヴォークールの街の守備隊長に王太子が居住するシノンまでの道中の便宜を図ってもらうために会いに行った。当然のごとく却下されてしまうが、辛抱強く請願を続けた効果があったのか、6人の護衛をつけてもらうごとができた。なぜ、それが叶ったのかは、さまざまな推論が立てられ、王太子の義母ヨラルド・ダラゴンの陰謀説や、ジャンヌ・ダルクの王族御落胤説などまで、さまざまな説が出てきている。
シノンで王太子に謁見を許されたジャンヌは、そこでひとつの奇跡を起こした。王太子シャルルはジャンヌを試すために王の椅子には他人を座らせ自分は臣下と同じ格好で臣下とともに立っていた。ところが彼女は迷うことなくシャルルを見つけ出したという。その後、2人きりで何事かを話すと、シャルルはすっかり彼女を信じた。この時、何が語られたのかは分かっていない。
この時、フランス中部の要所、オルレアンはイングランドとその同盟軍により包囲されていた。オルレアンはシャルル王太子を支持するオルレアン・アルマニャック派の拠点であった。戦場へ赴いたジャンヌだったが、王太子派の高位貴族や将軍たちは彼女をただの田舎娘と軽んじ、軍議にも参加させないという扱いであった。しかし、戦闘を続け、勝利を重ねると、彼女の情熱に心酔する兵は増えていった。そして、ついに1428年5月8日、包囲されていたオルレアンの開放に成功する。そして、フランス国王と認められるために絶対にしなくてはならないランスでの戴冠式を成功させ、王太子はシャルル7世として即位する。
この頃が彼女の絶頂だったが、やがて彼女の運命は下り坂を迎える。パリを奪還することを強く主張するジャンヌは、イングランドやイングランドに与するフランス人勢力(ブルゴーニュ派)と戦争ではなく和解によって平和を実現したいと考える宮廷と対立するようになる。交戦を主張するジャンヌは宮廷にとって邪魔者になり始めていた。それでも、ジャンヌにパリ攻撃をさせたものの、ジャンヌはそれに失敗。ジャンヌの軍は解散させられた。戦友たちと別れたジャンヌはそれでも少人数の兵士を引き連れ交戦を続け、ついにブルゴーニュ軍の捕虜となった。
シャルル7世は無情にも彼女を見捨てた。ジャンヌはイングランドへと引き渡され、1431年の初頭からルーアンで宗教裁判にかけられた。シャルル7世の正当性を否定するために、彼女を異端として葬ることは決まっていた。ジャンヌが異端として処刑されれば、異端の力を借りて王位についたシャルル7世の王位の正当性を否定することができる。一度は見せかけの温情を示して彼女に悔い改めの誓いを立てさせた審問官は、次に彼女を陥れ異端のレッテルを貼り付けた。そして、5月30日に火刑は執行された。直接の死因は煙による窒息死。ジャンヌが絶命したことを群衆に示し、それから全身を焼き尽くされた。灰は聖遺物として利用されることを恐れてセーヌ川に流された。
ジャンヌの死後5年ほどして、メッツに25歳になったジャンヌが現れるという事件がおきた。ルーランで死んだのは、イングランドが用意した偽者で、自分が本物のジャンヌだと証言する少女が現れたのだった。この時、ジャンヌの兄弟までもが、本物であると証言した、とも伝わる。ジャンヌが生きていたという噂を聞き付けた教会が彼女に出頭を求めると、彼女は姿をくらまし帰ってこなかったという。魔女として哀れな最後を遂げてしまった彼女に、どうしても生きていてもらいたい。同じ時代を生きた人たちの願いが生んだ幻のように思える事件でもある。ジャンヌ・ダルクの復権裁判は25年がたってから行われ、有罪判決は無効という判決が下された。そして1920年に、聖人として列せられた。
【ストーリー】
天からの神の声に従い声によってフランスを救った救国の聖女、ジャンヌ・ダルク。イギリスとの戦争で捕らえられた彼女は異端審問にかけられ、異端者として火刑に処されることになる。処刑の前日、ジャンヌの元に裁判の記録を持った神父ドミニクが訪れ語り掛ける。ジャンヌの回想の中で、異端審問の裁判は牛や馬によって進められている。ジャンヌとドミニクは人々が魔女(つまりジャンヌ)を罵り、蔑む様を見ながら、これは一体なんであろうか、とかわし合う。ジャンヌの回想の中では幼かった頃の思い出話や、華々しく国王をランスで戴冠させた栄光の時も描かれる。しかし、やがて朝の訪れとともに現実へと立ち戻り、火刑の時を迎える。
【感想】
舞台演劇をそのまま活かした芸術映画というのは正直どう紹介していいか分からない。格調高い芸術作品だと思うがアクション主体の映画と比べたらイマイチ盛り上がらない。後は好き嫌いの問題か。私は芸術を解するという自信のある方は是非一度。