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津田梅子〜お札になった留学生〜(2022年)



津田梅子〜お札になった留学生〜(Amazon Prime Video)

DATE


日本

演出 : 藤田明二


<主なキャスト>


津田梅 : 広瀬すず

山川捨松 : 池田エライザ

永井繁 : 佐久間由衣

吉益亮 : 宮澤エマ

下田歌子 : 平岩紙

神田乃武 : 井之脇海

森有礼 : ディーン・フジオカ

伊藤博文 : 田中圭

津田初 : 内田有紀

津田仙 : 伊藤英明

        ……etc


目次
『津田梅子〜お札になった留学生〜(2022年)』の作品解説
キーワード『津田梅子(元治元年(1864年)〜昭和4年(1929年))』
『津田梅子〜お札になった留学生〜(2022年)』のストーリー
『津田梅子〜お札になった留学生〜(2022年)』の感想


【作品解説】

 2022年3月5日にテレビ朝日系列で放送されたテレビドラマスペシャル。日本の女子教育の先駆者として知られる津田梅子の半生を描いている。



【津田梅子(元治元年(1864年)〜昭和4年(1929年))】

 2024年7月に改定となった新紙幣の五千円札の肖像に採用された津田梅子は、元治元年12月3日(1864年12月31日)に津田仙、初子夫妻の次女として江戸に生まれた。明治4年(1871年)、日本最初の女子留学生の一人として岩倉遣外使節団に随行して渡米する。最年少だった梅子(初名はうめ。梅子に名を改めたのは1902年(明治35年)のこと)はアメリカに向かう船上で7歳の誕生日を迎えた。この時、女子留学生として一緒に渡米したのは上田悌子(14歳)、吉益亮子(14歳)、山川捨松(11歳)、永井繁子(8歳)の4人。その中で、悌子は慣れない環境に心身を病み、吉益亮子は眼病を患ったため、1年を待たずに帰国した。残った3人は年齢が若かったこともあり、比較的すんなり順応できたようであった。現在のワシントンD.Cのランマン家に預けられることになった梅子は、そこで10年以上を過ごし、ランマン夫妻は梅子を我が子のように慈しみ、梅子もランマン夫妻を崇敬していたという。梅子はその生活の中でキリスト教を信仰するようになり、1873年(明治6年)には受洗もしている。梅子とランマン夫妻との交流は、帰国してからも生涯にわたり続いたという。


 1881年(明治14年)10月に永井繁子が帰国。梅子と山川捨松は卒業をするまで1年の留学延長を申し出て、認められた。1882年(明治15年)11月に梅子と山川捨松も帰国する。梅子と捨松、繁子の3人はその後も生涯の友として交流を続けた。帰国した梅子だったが、女子留学を所管していた開拓使は、帰国する直前の2月に廃止されており、文部省がその役割を引き継いでいた。しかし、帰国した梅子に官職は用意されなかった。築地海岸女学校(青山学院大学の前身)や華族子女を対象とする私塾・桃夭女塾で英語を教えたり、伊藤博文の客分として住み込みで伊藤家の家庭教師をしたりしていた。1885年(明治18年)、学習院女学部から独立して華族女学校が創立されると、伊藤博文の推薦もあり英語を教えることになった。


 華族女学校で3年間教えた後、1889年(明治22年)に再び留学する。アメリカ合衆国ペンシルベニア州のブリンマー大学に留学した梅子は生物学を修めて3年後に帰国した。1892年(明治25年)に帰国した後は再び華族女学校の教授を務めた。1898年(明治31年)から女子高等師範学校教授を兼任した。同じ年の6月に私費でアメリカに渡りコロラド州デンバーで開催された万国婦人連合大会に参加。日本代表として3千人の聴衆を前に演説を行う。イギリスやフランスを周り、イギリスではフローレンス・ナイチンゲールとも面会し、知見を深めて帰国した。


 1900年(明治33年)7月、華族女学校を辞して東京麹町に「女子英学塾」を設立。塾長となる。「女子英学塾」は1904年(明治37年)3月に専門学校としての認可をされ、同年9月には、社団法人化された。1901年(明治34年)英文新誌社を設立し、英語教科書や英文学書の出版を行った。またキリスト教への強い信仰も持ち続け、1905年(明治38年)に日本キリスト教女子青年会(YWCA)初代会長に就任している。女子教育者と活躍し、国際交流にも貢献したが、1917年(大正6年)の春ごろに体調を崩し、入退院を繰り返すようになり、1919年(大正8年)2月に塾長としての活動を終えた。1929年(昭和4年)8月16日、脳出血のため死去。享年64歳。日本女性の知的解放に尽くした生涯であった。「女子英学塾」は1948年(昭和23年)に戦争後の学制改革を経て「津田塾大学」となり、その思想を現在にも継承し続けている。



【ストーリー】

 明治4年(1871年)の秋。女子で初めての海外留学生に6歳の津田梅(後の梅子)が選ばれた。父の仙は大喜びするが、母の初は反対している。この頃の日本には女子の高等教育を受けられる場はなかった。女子留学生は北海道開拓使が発案し、留学にかかる費用は全て国費で賄われる。仙は「国の大きな期待を背負っていることを忘れるな」と梅に語る。


 ともに渡米したのは吉益亮、上田悌、山川捨松、永井繁の4人。船上で伊藤博文と、ワシントンでは少年努使の森有札と出会う。渡米して1年ほど経った頃、目の病気にかかった亮と、強いホームシックにかかった悌の帰国が決まった。特に、最年長で面倒見の良い亮との別れは梅には耐え難かった。しかし捨松の覚悟を聞き、梅も決意を新たにする。アメリカの文化や風習を学び、予定より長い11年の留学を終えて、梅と捨松は帰国する。港には一足先に帰国していた繁も出迎えに来ていた。


 久方ぶりの家では、仙や初、姉の琴子や弟たちが出迎える。長く日本を離れていた梅は日本語が理解できず、英語が話せる仙と英語で会話する状態だった。文部省では留学前に約束されていた女学校の教師の職も反故にされ、日本における女性の地位の低さを思い知る。それは家の中でも同様で、外国での生活経験があるのに、妻に対して高圧的に振舞う仙の態度に違和感を覚える。


 繁の結婚が決まる。相手は留学していた海軍軍人。結婚後も音楽を教えるつもりだという繁に、梅は素直に祝福できない。梅は教師の職に就くが、外国人の教師より給与が低いことに納得できず抗議する。自分の考えははっきり言わなければならない、と考える梅に対して返ってきたのは「不満があれば辞めてくれていいですよ」という言葉。そのまま教師の職を辞めてしまった梅を、亮が訊ねてくる。亮は子供相手に英語を教えていた。亮を交えて4人が再会した日、捨松から結婚することを聞かされる。相手は陸軍卿の大山巌。親子ほども年の違う相手で、先日伴侶をなくしたばかり。女は結婚しなければ何もできないと言われる状況に疑問を持っていた梅は、反発して席を立ってしまう。


 そんな梅に伊藤博文から、創設予定の女子学校での教職と、伊藤邸に住み込みで伊藤夫人と娘への英語や西洋式のマナーを教えてほしいとの依頼を受ける。しかし、万が一、伊藤と間違いがあってはならないと考えた仙は申し出を断る。しかし梅はそれを引き受け、伊藤と様々な事柄で意見を交わすようになる。女学校が開校し、教鞭をとるようになった梅だったが梅の想いとは裏腹に、結婚する際の箔付けという考えの生徒と、それを良しとする上司。梅は、「国のお金で留学させてもらったのだから、その恩を返さなければ」という想いにとらわれていた。そこから解放された時、再び学ぶことを決意する。



【感想】

 津田梅子の生涯を描くには、2時間ほどの時間ではまるで足りず、全体的に駆け足と言おうか、まるで彼女の人生のダイジェスト版という印象を受けたが、津田梅子について興味を感じるにはいいドラマだったと思う。このドラマの中では津田梅子が17歳から再留学する25歳の頃までを描いている。6歳からの11年間の留学期間も描かれており、吉益亮や森有礼、伊藤博文といった後の人生に重要に関わってくる人たちとの出会いが描かれるが、それでも15分ほどで日本に帰ってくる。その後は、日本での女性の地位の低さや、意識の低さ、外国との考えの違いからくるギャップなどに悩み、仲間の結婚に反発したり、そんな自分を嫌悪したりする姿が描かれており、ずんと重いドラマである。 その中で梅子に寄り添うそうに支える山川捨松、永井繁の留学仲間との友情が、物語に温もりを与えている。


 自分の外国での生活で得た価値観が全く通用しない世界。その世界に放り込まれ、周りの女性が当たり前のように信じている価値観が理解できない、あたかも自分が異分子でしかないことを常に感じさせられる。その孤独は如何ばかりなものだろう。結婚しない女性も子供を産まない選択をする女性も珍しくなしくなった現代だが、そういう価値観が社会に受け入れられるようになるまで長い時間があり、そこ至るまでに多くの女性の地道な奮闘があって今がある、ということを改めて感じさせる作品。だが、当時の日本の社会や価値観を全て頭ごなしに否定しすぎて、梅がただのワガママ娘にしか思えない場面もあった。女の――人としての幸せとは何か、ということを考えてしまう作品でもあった。