アンゴルモア 元寇合戦記(2018年)

DATE
日本
監督 : 栗山貴行
原作 : たかぎ七彦『アンゴルモア 元寇合戦記(角川コミックス・エース)』
<主な声の出演>
朽井迅三郎:小野友樹
輝日:Lynn
鬼剛丸:小山力也
白石和久:乃村健次
張明福:斎藤志郎
阿無志:堀江瞬
火垂:竹内良太
導円:小林裕介
男衾三郎:浜田賢二
宗助国:柴田秀勝
阿比留弥次郎:鈴木達央
少弐景資:立花慎之介
長嶺判官:小野賢章
……etc
【作品解説】
2018年7月から9月にかけてサンテレビ、TOKYO MX他で放送されたテレビアニメ。原作はたかぎ七彦が2013年から2018年にかけて『サムライエース』、同誌休刊後は『ComicWalker』でWeb連載した同名漫画。舞台となるのは鎌倉時代。当時、世界最大の帝国であった元(モンゴル)が二度にわたり日本に攻めてきた元寇(蒙古襲来)の中でも最初の戦いとなった1274年(文永11年)における対馬での凄惨な戦いが描かれている。
【元寇(げんこう:1274年,1281年)】
当時世界最大の帝国を築いていたモンゴル帝国が二度にわたり日本に攻めてきた文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)。1271年にモンゴル帝国の第5代皇帝フビライは首都を大都(現在の北京)とし、国号を中国風に「大元」に改めた。中国王朝の正式の号を一字で呼ぶ慣例にならい「元」と呼称される。元寇――寇とは外から侵入して害をなす賊とか外敵を意味する――という呼称が用いられるようになったのは江戸時代からで、鎌倉時代は蒙古襲来などと呼ばれていたという。
1268年(文永5年)正月、蒙古(モンゴル帝国――以降は「元」と呼称する)から日本に宛てたの国書「大蒙古国皇帝奉書」を携えた高麗の使節団が大宰府に到来した。当時の大宰府は中国大陸や朝鮮半島などに対する日本側の窓口であった。当時の元はユーラシア大陸の大部分を支配し、西はヨーロッパにも迫っていた大帝国であった。東では朝鮮半島の高麗を1259年に降伏させ、南中国の南宋との戦いが続いていた。その翌年に元の第5代皇帝(大ハーン)となったフビライは、高麗に対する支配方針を武力征圧策をから懐柔策へと変更する。この方針転換は、朝鮮半島で三別抄という抵抗組織が戦いを続けている中で、南宋に対する包囲網を形成するために高麗を手なずけ、日本も支配下に置くための布石であった。国書の内容は表面上は通商を求めつつ、武力をちらつかせ、あからさまに天皇をモンゴル皇帝の下位に置いた無礼なものであったという。最初の国書は1266年に作成されたが、日本に渡ろうとしたモンゴルの使者を案内を命じられた高麗は、海の荒れ方を見せて航海の危険を訴え、貿易で知っている対馬の日本人は荒々しく頑なで礼儀にかけると主張し、日本進出は百害あって一利なし、故に通使は不要であると使者を説得した。高麗は日本侵攻の巨額の軍費、物資や人的な負担が降りかかってくることを恐れていた。高麗の反応にフビライは激怒し、高麗の王に責任をもって日本に国書を渡すように厳命した。そうやって届けられた国書は鎌倉幕府を通じて朝廷に届けられ、朝廷は幕府の意見を受けて返書を出さない――つまり、無視という結論になった。
最初の国書が届けられた文永5年の3月。これまで鎌倉幕府の実質的なリーダーである執権の地位にあった北条政村が退き、18歳の北条時宗が就任する。朝廷や幕府は全国の寺社が「敵国降伏」の祈祷を連日行うように命じ、西国の御家人には元襲来に備え異国警固番役の任に就くよう命じた。元からは数回にわたり国書が届けられたが、幕府と朝廷は無視し続けた。初めて経験する外国勢力の襲撃という未曽有の国難が迫る1272年(文永9年)、朝廷を監視する六波羅探題の要職にあった異母兄の北条時輔らによる謀反の企てが発覚し、これらを粛清し幕府の統制強化が図られた。同じ年に元からの使者として訪れた趙良弼らは1年以上滞在したがやはり返書は受け取ることができなかった。帰国した趙良弼はフビライに対し日本人の性質がいかに残虐で低劣であったか、日本の国土がいかに劣悪で生産性の低い土地であるか、民俗などがいかに非文明的であったかを切々と説き、日本侵攻は無益で、日本を討つことなきがよいと、日本侵攻に反対した。一旦はこの献策を受け入れたフビライだったが南宋や三別抄との戦いに目途がついたことで、日本侵攻の動きが本格化する。高麗に300隻の軍船を建造を命じ、高麗からは工匠・人夫3万人余りが動員され、高麗の民は塗炭の苦しみを味わうことになったという。
1274年(文永11年)10月3日。元・高麗連合の軍船900隻、総数3万からなる艦隊が日本侵攻を始めた。5日以降、対馬、壱岐を次々と落とし、20日、博多湾へと上陸した。日本側は鎮西奉行・少弐景資を総大将に迎え撃った。早良郡の百道原へ上陸した元・高麗の連合軍は東の赤坂の地に陣を敷いた。日本の武士は、元と高麗の連合軍の使う経験のない戦法やてつはう(鉄砲と書くが現在で言う手りゅう弾のような武器)などの見たことのない武器に翻弄された。戦闘は、朝8時頃に始まり18時頃に終結したとされる。博多沿岸での戦いが劣勢となった日本側は水城まで引き返して態勢を整え直そうとする。優勢であったとはいえ日本の善戦に多くの負傷者がでた元・高麗の連合軍は船に引き返した。ここで不可解なことが起きる。10月21日。博多湾を埋め尽くしていた元の船が一夜にしていなくなってしまったという。理由は定かではないが博多湾を離れた元・高麗の軍勢は暴風雨に巻き込まれ、約半分の船と兵員を失って朝鮮半島の合浦に帰還した。
日本側はこれで終わったと考えず警戒態勢が強められた。事実、1275年(建治元年)になるとフビライは再び日本侵攻を企てると同時に、日本に使節を送る。鎌倉幕府は、元からの使節団5人を、江の島付近の龍ノ口で斬首とした。使節団が幕府によって殺されたのをフビライが知るのはずっと先のことだったが、この間、使節の帰りをじっと待っていたわけではなく、日本侵攻の準備も進められていた。しかし、南宋との戦いが最終局面を迎えたこともあり、二正面作戦を避けて日本侵攻は遅れることとなった。1279年(弘安2年)にも再び使節が送られてくるが鎌倉幕府はこれも博多で斬首に処した。フビライは日本侵攻の船の建造や物資の提供を高麗をはじめとした支配地域に命じるが、民の疲弊は著しく、配下の者からも日本侵攻に反対する諫言がなされるほどだった。しかし1281年(弘安4年)5月初旬、文永の役の数倍の軍船と人員からなる当時世界最大規模の艦隊が日本に向けて出撃した。
元・高麗からなる東路軍と旧南宋の軍からなる江南軍は壱岐の沖で合流する計画を立てていた。先行する東路軍によって再び対馬、壱岐で悲惨な歴史が繰り返された。しかし、九州北部の沿岸には防塁が築かれており、東路軍の上陸を容易には許さず、日本得意の海上戦に持ち込むことができた。東路軍の艦隊は6月6日夜襲による敗戦を皮切りに、敗走を重ね、壱岐沖へと撤退した。6月の終わりから7月初め頃にかけて、日本側の総攻撃が行われ、東路軍は壱岐島を放棄した。江南軍も当初の予定を外れ、大宰府に近い平戸島に艦隊を進めていた。さらに伊万里湾の口にある鷹島へと主力を移動させていた7月下旬に東路軍が合流する。これに対し、日本側は7月27日、鷹島沖に停泊した艦隊に対して海戦を挑む。夜半から明け方にかけて行われた戦闘は長時間に及んだ。7月30日。博多を襲った台風によって元軍は大きな損害を受ける。閏7月5日に日本側は伊万里湾の艦隊に総攻撃をかけて殲滅し、7日には台風の後置き去りにされ鷹島に陣を敷いた元軍の兵約10万に対し総攻撃を仕掛けた。これにより鷹島の元軍は壊滅。数万が捕虜になったという。
二度の日本侵攻に失敗しても皇帝フビライは、さらなる侵攻を計画していたようだが、結局それは実現されなかった。日本側では、この難局を乗り切ったとはいえ物資的に得たものは何もなく、幕府は命を懸けて戦った武士に十分な恩賞を出すことができなかったため、御家人は大きな不満を抱くことになった。幕府から御家人の気持ちが離れていくことに心労が祟ったか執権・北条時宗は1284年(弘安7年)、34歳の若さでこの世を去った。
【ストーリー】
鎌倉時代――。舞台となるのは朝鮮半島と九州の間に位置する国境の島、対馬。そこに、朽井迅三郎をはじめとする流人たちを乗せた船が流れつく。流人たちの前に、対馬の地頭代である宗氏の娘、輝日姫が現れ、対馬のために戦うように命じる。日本に臣従を求めるモンゴル帝国は、属国である高麗に命じて日本侵攻の準備を進めていたのである。これと戦うために迅三郎たちは対馬に送り込まれたのだと輝日姫から知らされる。輝日姫は「対馬のために死んでくれ」と言い放つ。
対馬を実質的に支配している輝日姫の父・宗助国たちは、高麗と対馬の間には長年の付き合いがあることから、素通りしていくのではないかと考えるが、迅三郎はその考えを一蹴する。独自に戦いの準備を始める迅三郎に、宗氏の面々は不快を覚える。しかし戦慣れした迅三郎の戦略眼は確かで、想像以上の大軍が対馬に上陸する。迅三郎に触発され、先頭に立って果敢な戦いぶりを見せる宗助国や宗右馬次郎、阿比留弥次郎たち宗氏の面々だったが、奮戦及ばず次々に命を落としていく。
迅三郎は地形を活かした戦法で鬼人の如き戦いを繰り広げるが、多勢に無勢は否めない。しかし、そんな迅三郎や流人たち、宗氏の生き残りたちを、数百年前の大戦で対馬に送られた防人の末裔であり宗氏に服従してこなかった刀伊祓(といばらい)という集団が迎え入れる。刀伊祓の指導者である長嶺判官は、ある高貴な人物の仲介で助力をすると語る。さらに、友人である少弐景資が約束した援軍という望みが迅三郎にはあった。あと数日持ちこたえれば援軍が来るはず……。しかし、大宰府では景資が必死に抗議するものの、対馬を見捨てることが決まっていた。
【感想】
文永の役での対馬で7日間の戦いを架空の人物である朽井迅三郎を主人公に、作者の想像力とアニメ的な演出を盛り込みながら描いたテレビアニメ。かといって対馬での戦いの詳細は分からないからと言って描き捨てたような作品ではなく、蒙古と高麗の兵装の描き分けがしっかりされていたり、丹念に資料にあたりながら描かれた作品だと感じられて好感が持てる。
元寇における対馬での戦いも、決着は決まっている話である。朽井迅三郎がどんなに善戦しようが対馬の敗北という結末は覆らない。強大すぎる敵を前に、いつか来る敗北と死の時を、ほんのわずかだけ先に延ばすだけの虚しい戦いに、心折れる者も出てくる。そんな絶望しか見えない中、「一所懸命」という言葉を繰り返しながら、その場その場で全力を尽くそうとする迅三郎。彼がここまで頑張れるのは、敗北の惨めさを身をもって知っているからではないかと思える。戦うとは何か? 負けるというのはどういうことなのか? 本気で戦ったことのある人が一体どれだけいるのだろうと感じる現代だからこそ、改めて問い直してみるのも良いのではないかと思う。