関ヶ原(2017年)

DATE
日本
監督 : 原田眞人
原作 : 司馬遼太郎 『
関ケ原』
<主なキャスト>
石田三成 : 岡田准一
初芽 : 有村架純
島左近 : 平岳大
小早川秀秋 : 東出昌大
井伊直政 : 北村有起哉
蛇白/阿茶 : 伊藤歩
北政所 : キムラ緑子
豊臣秀吉 : 滝藤賢一
大谷刑部 : 大場泰正
前田利家 : 西岡徳馬
直江兼続 : 松山ケンイチ
徳川家康 : 役所広司
……etc
【作品解説】
原作は1966年に新潮社より刊行された司馬遼太郎の『関ケ原』。監督を務めた原田眞人氏は20年以上にわたりこの作品の映画化を熱望し、構想を温めていたという。義に殉じた武将・石田三成と、豊臣秀吉の死後天下の簒奪を謀る狡猾な老ダヌキ・徳川家康の対立が天下分け目の関ケ原の戦いへと繋がっていく様を描いている。
【関ケ原の戦い(慶長5年(1500年))】
慶長3年8月18日(1598年9月18日)――。織田信長の後を継いで天下を統一し、武家として初めて関白の地位に就き、名実ともに日本の最高権力者となった豊臣秀吉が、二度目の朝鮮出兵の最中、京都の伏見城で病没した。文禄2年(1593年)に生まれたまだ幼少の息子、秀頼の身を案じながらの死であった。秀吉は、徳川家康や前田利家といった五人の有力大名に豊臣政権の重臣として、石田三成など政権運営の実務を担ってきた五人の奉行に豊臣政権の中枢として、後を託した。五大老・五奉行として知られるが、当時はそう呼ばれていたわけではないらしい。
五大老と五奉行の中で特に力を持っていたのは関東に240万石の所領を有していた徳川家康だった。秀吉の生前は「律儀な内府」などと呼ばれていたという家康だが、秀吉の死後、おとなしく豊臣政権を支え秀頼をもり立てる立場に甘んじるはずもなかった。これに対して秀吉の元で重用されていた石田三成は、五大老の一人、中国地方の雄・毛利輝元に接近する。双方が多数派工作に邁進し、徳川家康を中心とするグループと、石田三成を中心とするグループができることになる。前者を武功派、後者を吏僚派などと呼んだりする。早晩、この両陣営が衝突するであろうことは明白であった。慶長4年(1599年)の5月には、有力大名と次々と縁戚関係を結ぶ家康に対し、他の四人の大老から弾劾が出される一件もあったが、家康は気にしなかった。慶長4年閏3月。五大老の一人、前田利家が逝去。人望厚く家康への牽制役が担える唯一の人物であり、武功派と吏僚派の調整役を担ってきた利家の死が、綱渡りのようにかろうじて保っていたバランスを崩した。
かねてから三成に不満を持っていた福島正則、加藤清正ら武功派の諸将が三成の屋敷を襲撃した。真偽は分からないが三成は京の伏見の家康邸に逃げ込んだ、という逸話がある。家康は三成の命を狙った武功派の諸将を説得し、三成を佐和山城(現在の滋賀県彦根市)に蟄居させ、奉行としての奉公を退かせた。天下の情勢は家康有利に推移していた。慶長4年9月に家康暗殺計画が発覚する。荷担したとされる諸将が蟄居や流罪となる中、家康は首謀者とされた前田利家の後を継いだ利長の征伐に乗りだそうとした。交戦か弁明かの選択を迫られた利長は母の芳春院や重臣の子らを人質にさし出して決着した。その最中、家康は大阪城へと入り、政務を始めた。
慶長5年(1600年)春、五大老の一人、上杉景勝に対しても「謀反の企ての疑い」の訴えがあるとし、上洛して弁明するように命じた。秀吉の死の直前に会津へ国替えしたばかりの景勝に上洛する余裕などなく、景勝は秋までの上洛延期や謀反の疑いをかけた者への追求を求めた。しかし、家康と景勝の交渉は決裂し、家康は会津討伐の兵を挙げ、豊臣秀頼に上杉討伐の許可を得て大阪を離れた。この交渉に際して、上杉家の家老・直江兼続が出した書簡(直江状)の内容があまりに傲慢無礼の極みであったため、家康が激怒して会津討伐に乗り出したという話もある。大阪から家康がいなくなった隙をついて石田三成が挙兵。8月1日に京の伏見城を落とした。一説には上杉討伐は三成挙兵を誘うための誘い水であったとも言われる。家康は伏見城が前哨戦となることをわかっていて、伏見城を守る何十年にも渡り側近として仕えてきた鳥居元忠との今生の別れに涙しつつ上杉討伐に向かったとも言われている。また、三成と上杉景勝の間に東西から家康を攻める密約があったという説もあるが、最近の研究ではあまり現実的ではない説であるようだ。
秀頼の許可を得ての上杉討伐の最中での三成挙兵は、家康と家康に味方する諸将からみれば豊臣家に弓引く行為であった。しかも、三成は上方に残された諸将の妻子を人質を取ったも同然であった。そんな中、三成挙兵の報せを受けて7月25日に開かれた下野国小山で行われた軍議で打倒三成の意思が確認され東軍の結束が示された。三成は関ケ原より東の尾張での決戦を考えていたといわれるが、8月23日に東軍は織田秀信(織田信長の嫡孫)が守る堅固な岐阜城をわずか2日で落としてしまう。想定以上に速い岐阜城の落城に算段が狂った三成は大垣城にこもっての長期戦を考えていたとも言われる。しかし、三成は9月14日の深夜、関ケ原への西軍の陣替えを行い城を出て野戦による決着を選んだ。家康の偽情報に踊らされたという説もあるが、この決断は関ケ原の合戦最大の謎とも言われている。
9月15日。決戦の地となった関ヶ原に布陣した石田三成を中心に集まった西軍は約8万。対する徳川家康ら東軍は約7万。徳川秀忠が率いる三万四千の兵は上田城攻めに手間取り関ヶ原には間に合わなかった。史料によって異なるが兵の数では西軍の方が優勢であった。その上、関ヶ原を取り囲む山々に布陣した西軍のただ中に東軍が突っ込んでくる陣形となっており、図上では西軍有利だった。関ヶ原の戦いは9月15日の午前8時頃に始まったとされている。東軍の井伊直政、松平忠??の隊が発砲し、開戦の合図となった。戦いが始まってほどなく石田三成の右腕で陣頭指揮を執っていた島左近が負傷するが、三成が陣頭指揮を執っての奮戦などによって当初は西軍優勢に推移した。
しかし正午過ぎ頃、松尾山に布陣した小早川秀秋が裏切り松尾山を下った。西軍の名将、大谷吉継(刑部)は裏切りに備えて600の兵を配置しており、小早川秀秋率いる1万5千の兵を押し返した。しかし、小早川秀秋の裏切りを皮切りにさらなる寝返りが相次いだ。家康は西軍の諸将に対しても、領土や役職といった恩賞を餌に、なりふり構わぬ懐柔を繰り返していた。どちらに付くのが得か迷いながら戦場に出た将も多かっただろう。西軍総大将の毛利輝元ですら大阪城に鎮座したまま動かず、関ケ原に布陣した西軍の最大勢力である毛利勢は、家康と内通していた吉川広家の妨害によって動くことができなかった。石田三成、大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家といった将たちが奮戦している中、傍観に徹した将も多かったという。一度崩れ始めると立て直す余力は西軍にはなく、午後3時ごろには東軍勝利で決着した。石田三成は西に落ち延びるが9月21日に捕縛され、10月1日に六条河原で斬首となった。西軍の諸将から没収されえた600万石を超える所領は、家康によって東軍の将に分配された。その中には豊臣家の140万石も含まれており、豊臣家は一大名に転落し、徳川家による新たな時代が始まろうとしていた。
【ストーリー】
その出会いは、豊臣秀吉がまだ織田信長配下の近江長浜24万石の大名にすぎなかった頃。三成は幼名を佐吉と言い、ある寺で、鷹狩の途中に喉が渇いて茶をもらいに来た秀吉と出会った。この時のやり取りから三成の才覚を見抜いた秀吉は、三成を連れていく。それから時を得て――秀吉は天下人となったが、さらなる戦場を朝鮮半島に求め、平和な時代はまだまだ訪れなかった。さらに、息子の秀頼が生まれたことがきっかけになって、甥の秀次を切腹に追い込んだあげく、女子供を含めて連座させ命を奪う。その処刑を仕切った三成は、秀次の側室候補だった最上家の駒姫お付きの初芽という伊賀の忍びの娘や、処刑に対して憤懣の声を上げた牢人・島左近を配下に迎える。暴君となった秀吉の振る舞いに何もできないことに歯がゆさを覚える三成。しかし、秀吉亡き後、再び世は乱れるだろう。その時は利害ではなく正義によって動く世の中にしなければ。
そんな思いとは裏腹に、秀吉が病に伏した途端に、豊臣恩顧の大名を懐柔するために暗躍し始める徳川家康。そんな家康に強い憤りを覚える三成が家康と衝突するのは目に見えていた。家康は若い武将・小早川秀秋に接近する。秀秋は三成とも確執があり、家康は秀秋に甘言ををささやき、取り込んでいく。それを阻止すべく三成も策をめぐらせる。そんな中、大谷刑部への使いとして送り出した初芽に対して三成は、彼女に対する好意を告げる。秀吉の死後、三成と家康の対立の間に入っていたのが前田利家だったが、その利家もこの世を去ると細川忠興、加藤清正、福島正則など三成と対立してきた武将が兵を上げ三成の屋敷を襲撃する。帰らない初芽を案じつつ三成は逃げることを決める。三成は左近に対して、「いま、自分に最も死んでほしくないのは誰か?」と尋ねる。それは、対立する家康に他ならない。三成は家康の屋敷に逃げ込むことを決断する。しぶしぶ三成をかくまった家康は、宿敵と一晩、同じ屋根の下で共に過ごすことを滑稽に思いながら床につくのだった。
翌年9月――。天下分け目の戦いが迫っていた。三成の旗の下には多くの将が集まり、数の上では西軍有利。しかし、頼みとする毛利勢は日和見を決め込み軍議にも参加しないありさまだった。もしも西軍が破れたら、味方した将に恩賞を与えなければならない家康が、毛利の所領120万石の大半を取り上げるであろうことは明白。それを訴えようと放った書状は、大阪城の毛利輝元には届かなかった。三成、家康とも、決戦の地は関ケ原になると定め、軍勢を動かす。決戦前日――大谷刑部は松尾山に陣を張る小早川秀秋の裏切りを警戒していた。その秀秋の陣に、三成は向かい、自分たちの味方になるように説得する。義を説く三成の姿に、家康に付くことを決めていた秀秋の内心は大きく揺らいだ。そして、翌朝、合戦が始まった。
【感想】
秀吉の死から天下分け目の関ケ原の戦いに至るまでを敗者である西軍の将・石田三成を主人公に描かれた作品。石田三成を、愚直に義に生きた男――義に生きようとした男として描いている。3000人のエキストラを投入したという合戦の場面などは圧巻。家康を演じた役所広司さんはじめ、要所要所に配された実力ある俳優が、物語を重厚なものにしている。かといって陰気臭い時代劇ではなく、テンポよく進んでいく。
全体的にセリフが早口なのと、時代背景に予備知識がないと見ていても置いてけぼりにされるだろう、と感じる点はネットでこの映画を低く評価している人の意見としてよく見かけたが、個人的には歴史モノってそういうものではないか、と感じる意見なので、個人的にはあまりマイナスポイントとはとらえない。個人的には東出昌大さん演じる小早川秀秋の権力に振り回され、豊臣と徳川に挟まれ苦悩し葛藤し、己の不遇と戦っている姿が印象的。これまでのドラマで描かれたような、ただ時流に流されるまま東軍に寝返ったボンクラ武将とは異なる秀秋像を作っていたと思う。