首(2023年)

DATE
日本
監督・脚本 : 北野武
原作 : 北野武『首』
<主なキャスト>
羽柴秀吉:ビートたけし
明智光秀:西島秀俊
織田信長:加瀬亮
難波茂助:中村獅童
曽呂利新左衛門:木村祐一
荒木村重:遠藤憲一
斎藤利三:勝村政信
般若の左兵衛:寺島進
服部半蔵:桐谷健太
黒田官兵衛:浅野忠信
羽柴秀長:大森南朋
安国寺恵瓊:六平直政
間宮無聊:大竹まこと
為三:津田寛治
清水宗治:荒川良々
森蘭丸:寛一郎
弥助:副島淳
徳川家康:小林薫
千利休:岸部一徳
……etc
【作品解説】
2023年11月に劇場公開された北野武原作の同名小説の映画化。北野氏自身による脚本・編集・監督・主演のもと、豪華キャストが集結し、総製作費15億円をかけて制作された異色の歴史時代劇。2023年5月の第76回カンヌ国際映画祭、カンヌ・プレミア部門に日本人監督の作品として初めて出品された。
【本能寺の変(天正10年(1582年))】
天下布武を掲げ天下統一に邁進する織田信長は、元亀4年(1573年)4月の武田信玄の死後、反織田信長で結束した敵対勢力を次々と撃破していった。最大の敵対勢力であった本願寺とも天正8年(1580年)に和睦。天文10年(1582年)3月には天目山の戦いで武田勝頼・信勝親子を自害に追い込み、長年の宿敵であった甲斐の名門、武田氏を滅亡させた。東国で表立って信長に敵対する勢力は、越後の上杉氏などわずかなものになっていた。信長は、いよいよ天下統一の総仕上げに取り掛かる。
越後の上杉氏は天正6年3月の上杉謙信の死後、跡目争いの内戦によって大きく力を落としており、信長から越前を預かった柴田勝家がこれを攻めていた。関東の北条氏は健在だったが、内心はとにかく織田氏との同盟関係にあった。信長は滝川一益に上野国を与え、関東八州の鎮撫にあたらせた。西国では中国地方を支配する毛利氏に対し、羽柴秀吉を派遣し中国征伐が行われていた。四国に対しては四国統一を目指す長曾我部氏を征伐するために自身の三男、神戸信孝に、重臣の丹羽長秀を付けて準備を進めていた。
多くの重臣が日本各地に散っている中、当時の京は軍事力の空白地帯になっていた。近畿で最大の戦力を有しているのは丹波に本拠を持つ明智光秀であった。その光秀は、天文10年(1582年)5月に、信長の最大の同盟者であった三河の徳川家康の饗応役を務める。3日間の饗応の最後にあたる5月17日、中国攻めで備中高松城を攻囲していた羽柴秀吉から、信長の下に、応援を要請する書状が届く。信長は光秀に秀吉の応援のために出陣の準備をするように命じた。一説では、信長は自ら出陣し、中国地方の毛利氏を滅ぼしたら、一気に九州まで制圧するつもりだったとも言われている。
5月26日。居城の近江坂本城を出た明智光秀は、丹波亀山城に入る。27日に愛宕山に登って愛宕権現に戦勝祈願の参拝を行う。28日に光秀は威徳院西坊で連歌の会(愛宕百韻)を催した。そのころ信長は29日にわずか150名ほどを連れて本能寺に入る。信長の嫡男で織田家当主の織田信忠も2,000の手兵とともに妙覚寺に逗留していた。光秀がいつから信長への謀反を考えるようになり、いつ決行を決意したのかは分からない。しかし、京に天下統一を目前とした織田信長と、織田家当主の信忠が同時に、大した数の供もないまま京に滞在し、さらに光秀には京付近で万を超える兵を堂々と動員する大義名分があるという、一生に一度めぐってくるか分からない千載一遇の好機が光秀の目の前に出現したのである。
6月1日、光秀の軍勢13,000は丹波亀山城を発った。この時には、腹心の一族や重臣に対しては、その決意を伝えていただろう。光秀は兵を救援に向かう備中とは逆方向の東に向けた。全軍に対しては、京の信長公に備中出陣の軍装を披露する目的だと伝えていたという。6月2日未明、桂川に到達。全軍に戦闘準備の命令が下された。この時も、光秀配下の家臣や従軍する兵たちはまさか信長を襲撃するとは思っておらず、上洛していた徳川家康を討つのが目的だと考えていたという。6月2日未明、京に入った明智光秀の軍勢は四条西洞院付近にあった本能寺を完全に包囲した。
明智の軍勢は本能寺に乱入する。本能寺の警備は、天下を手中に収めようとしている織田信長が逗留しているにしては異常なほど手薄であったという。起き出した信長は、その喧騒を、最初下々の者たちの喧嘩だと思ったという。しかし、やがて鬨の声が上がり、鉄砲が撃ち込まれ始めた。信長は謀反であることに気付き、「如何なる者の企てであるか」と問うと、小姓の森蘭丸が「明智の軍勢と見えまする」と返した。信長は、「是非に及ばず」と言ったと伝えられる。信長は最初は弓で、弦が切れると槍で応戦した。しかし、やがて手傷を負い、付き従っていた女中衆を脱出するように命じると、本能寺の御座所に火をかけ、自らは殿中の奥深くに入り、切腹して果てた、と伝えられる。
妙覚寺に逗留していた信忠は、信長の救出に向かうも逃亡兵なども相次ぎ、とても十重二重に包囲された本能寺から信長を救出することなど不可能だった。信忠は堅牢な二条城に向かった。二条城の主である東宮・誠仁親王と、若宮・和仁王(後の後陽成天皇)を避難させると、信忠は二条城に立てこもった。信長配下の在京の馬廻り衆が助勢に駆け付け、約1000〜1500ほどの兵で包囲する明智の軍勢と果敢に戦った。約1時間にわたって激しい戦いが続いたが、やがて兵力も減っていき、最後は信忠も自刃して果てた。
明智光秀が何故、本能寺の変を起こしたのかは戦国最大の謎の一つとされている。感情的で残酷であった信長に受けた仕打ちに怨恨を抱いていたという説。自身も天下を狙っていたという説、光秀をそそのかした黒幕がいたのではないかという説、光秀の立場が家臣団の中での立場が低下していたことに対して危機感を抱いて事を起こしたという説――。何が理由であったのかは分からないが、謀反は成功し、時代の寵児であった織田信長は歴史から姿を消した。そして、羽柴秀吉が日本史の次なる主役に躍り出るのも光秀の謀反がなければあり得なかった。
謀反を成功させた光秀であったが、火勢があまりにも強すぎて信長・信忠親子の遺体も焼き尽くされてしまい、その死を明確なものにできなかったことが第一の不運であった。本能寺の変の後、関係が深く頼りにしていた細川藤孝、筒井順慶といった将が、光秀に協力しなかったり消極的な動きにとどまったのも、信長の生存の可能性を否定できなかったからでもあっただろう。さらに光秀は、羽柴秀吉が攻囲していた備中松山城を救援するために向かっていた小早川隆景に書状を送り、信長の死を伝え、秀吉を挟撃するように誘うが、その書状が秀吉に渡ってしまったのも不運であった。秀吉は備中松山城主の首と引き換えに城兵の命を助けることを条件に、急いで和睦を結んだ。そして、後に中国大返しと呼ばれる強行日程で居城の姫路城へ戻る。信長の弔い合戦を掲げた秀吉の下に、態度を決めかねていた近畿の諸将も集結。形の上では信長の三男、神戸信孝が総大将ではあったが、光秀の倍の兵力に膨れ上がった大軍勢を誰が指揮しているかは誰の目にも明らかであった。6月13日、山崎の戦いで明智光秀は羽柴秀吉に敗れ、夜陰に紛れて居城の坂本城に戻ろうとしている時に落ち武者狩りの農民の手にかかり命を落とした。『明智軍記』によれば享年は55歳だったとされている。
【ストーリー】
織田信長が天下統一に邁進していた頃。信長に反旗を翻した荒木村重は、敗北濃厚となると有岡城から一人姿を消す。村重を取り逃がしたことで、村重の友人だった明智光秀は、信長から村重を逃がした疑いをかけられ、足蹴にされる。光秀は、かつて村重が受けた仕打ち――刀に刺したまんじゅうを食わされ、血まみれの口に信長から接吻されていた過去を思い出す。村重は下級武士に変装して逃げようとしていたが、旅芸人で抜け忍の曽呂利新左衛門に捕らえられた。その後、村重の身柄は千利休を通して光秀の下に届けられる。村重探索の責任者であった光秀はいったん刀を抜いたが、村重を匿うことにる。村重と光秀は恋仲であり体の関係もあった。
曽呂利新左衛門は、侍になりたくて村を飛び出した茂助という青年を仲間に加え、鳥取城を攻める羽柴秀吉の陣を訪れる。堅固な鳥取城に対して秀吉は、軍師である黒田官兵衛の発案による兵糧攻めを仕掛けようとしていた。新左衛門は用を終えた後も秀吉の陣に残っていた。秀吉の軍勢の雑兵たちを相手にイカサマ博打をして稼いでいたが、秀吉に見破られ、雑兵たちからリンチされそうになる。しかし、新左衛門を面白がった秀吉に配下に招き入れられる。秀吉は新左衛門に生きては帰れない任務を与える。それは甲賀の里に行き「信長の手紙」を受け取ってくるというもの。茂助たちとともに甲賀の里に近づいた新左衛門は、甲賀の忍びに襲われる。しかし、幸いにも新左衛門の元兄弟子の「般若の左兵衛」だったことで、話はスムーズに進み、「信長の手紙」を買い取ることに成功する。
村重の探索を形式上続けている光秀は、東に――徳川家康の元に逃げたと信長に伝える。亀山城で光秀と村重は抱き合いながら家康を陥れるべく策を練っていた。それを何者かの間者に聞かれていることを察知した光秀は部下の斎藤利三に曲者を見つけ出すように命じる。織田家家中での光秀の立場はさらに強いものになっていた。信長は京で皇族や公家、京の庶民を前に、その威光を示す「馬揃え」を盛大に行った。そのプロデューサーとして仕切ったのは光秀であった。その堂々とした態度と凛々しい容貌は京の庶民たちから羨望の視線を集めることになる。その「馬揃え」の行列の中に百姓出身の秀吉の姿はなかった。
新左衛門から「信長の手紙」を受け取った秀吉は、そのあまりの内容に激怒する。信長は家臣たちを競わせるために跡目までちらつかせていたが、信長の言葉は全て?であり、実際には家臣を信じてなどいなかった。自分が侮蔑の目で見られていることを改めて思い知らされた秀吉は、信長を排除することを心に決める。その頃、信長は光秀と図り家康暗殺を企てていた。しかし、ことごとく失敗する。怒り狂った信長は光秀を斬ろうとするが、とっさに発した一言で命は助かった。男色の信長は、光秀のことも狙っていたのである。秀吉は光秀の元を訪れ、「信長の手紙」を見せる。その内容は、光秀にも信長への信頼を失わせるに十分であった。秀吉、光秀、家康――。それぞれの思惑が入り混じる中、裏切りの物語は最終局面に向かって進んでいく。
【感想】
見た後で最初の感想はとにかくカオスな映画。この映画の中に、時代劇の善玉のような高潔な侍は出てこない。誰もが狂気に侵され、裏切りと陰謀が入り混じる。それでいてどこかユーモラスに描かれている。血がしぶき、首を落とされるような場面でも、何だか笑ってしまうような気分になったのは、自分も狂気の世界の住人になっていたからなのかもしれない。明智光秀や曽呂利新左衛門のような、一見まともそうな人間の方が窮屈で生きにくそうに見えるのは、戦国の時代ではそれがまともではないからなのだろうか。平和っていいなぁ、と改めて思う。
織田信長は、本能寺の変で死んだとき、数えで49歳だったとされる。史料の乏しい明智光秀は55歳とも62歳とも言われている。庶民の出の羽柴秀吉は信長より5歳くらい年下だったとされ、徳川家康はそれよりさらに5歳くらいは年下。意図的なものではあるのだろうけれど、さすがに古希を過ぎたビートたけしや小林薫が演じるのは無理がないか、と感じてしまう。実年齢より30歳若い秀吉を演じるビートたけしの「バカヤロオ」「コンチクショウ」に力がなく、なんだか寂しく感じた。