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逃げ上手の若君(2024年)




DATE


日本

監督 : 山崎雄太
原作 : 松井優征 『逃げ上手の若君(集英社「週刊少年ジャンプ」で連載中)』

<主な声の出演>


北条時行 : 結川あさき

雫 : 矢野妃菜喜

弧次郎 : 日野まり

亜也子 : 鈴代紗弓

風間玄蕃 : 悠木 碧

吹雪 : 戸谷菊之介

諏訪頼重 : 中村悠一

足利高氏 : 小西克幸

小笠原貞宗 : 青山穣

         ……etc


目次
『逃げ上手の若君(2024年)』の作品解説
キーワード『北条時行(元徳元年?(1329年?)〜正平8年/文和2年(1353年))』
『逃げ上手の若君(2024年)』のストーリー
『逃げ上手の若君(2024年)』の感想


【作品解説】

 2024年7月から9月にかけてTOKYO MX他で放送されたテレビアニメ。鎌倉幕府滅亡後の激動の時代を舞台に、鎌倉幕府最後の執権・北条高時の遺児、時行を主人公にしている。原作は、ヒット作を連発してきた松井優征が週刊少年ジャンプに連載中(2024年10月現在、単行本17巻まで刊行されている)の同名の人気漫画。2024年のアニメ化に引き続き、第2期の制作が発表されている。






【北条時行(元徳元年?(1329年?)〜正平8年/文和2年(1353年))】

 鎌倉時代末期。鎌倉幕府の執権、北条高時の次男として生まれる。生年ははっきりしていないが、兄の北条邦時は正中2年(1325年)11月22日生まれと考えられているため、それ以降の生まれと考えられている。母は室町時代に成立した軍記物語「太平記」では高時の側室、二位殿(新殿)と伝えられている。

 政務の実権を朝廷に取り戻そうと動いていた後醍醐天皇を中心とする倒幕の動きが元徳3年(1331年)4月に発覚した。楠木正成らの武将も呼応し戦となるが一時は鎌倉幕府が勝利し、関係者は処分され後醍醐天皇は隠岐島に流される。しかし、死んだと思われていた楠木正成や還俗した護良親王が挙兵し、後醍醐天皇も隠岐島を脱出する。楠木正成の守る千早城攻めにてこずり、幕府軍の中に厭戦気分が広がる中、後醍醐天皇が発した綸旨(天皇による命令書)や護良親王による令旨(皇族による命令書)が出回り、後醍醐天皇側が勢力を盛り返していく。

 元弘3年/正慶2年(1333年)4月終わりに武家の名門、足利氏の当主・高氏(後の足利尊氏)が幕府に反旗を翻した。高氏は5月7日に鎌倉幕府の京の拠点であった六波羅探題を壊滅させる。同じ頃、関東でも新田義貞が挙兵し鎌倉に迫った。5月22日には東勝寺合戦で執権・北条高時をはじめとした北条氏一族は自刃して果て、ここに鎌倉幕府は終焉する。一連の騒乱を元弘の乱などと呼んだりする。

 幕府滅亡に際して高時は、息子の邦時を五大院宗繁に、時行を諏訪盛高に託した。邦時は五大院宗繁の裏切りによって命を落とした。時行は盛高の助けもあり鎌倉を抜けることができ、諏訪氏の本拠地である信濃国で諏訪神党のもとに匿われることになった。鎌倉幕府の崩壊後、後醍醐天皇は建武の新政を始めるが、元弘の乱の後の混乱を収拾できず、建武の新政下で冷遇されることになった鎌倉幕府や北条氏に近かった武士や公卿などによる反乱や謀略が相次いだ。

 建武2年(1335年)7月。建武の新政に不満を持つ勢力や北条氏の残党、諏訪頼重(諏訪盛高と同一人物とも言われる)・時継親子をはじめとした諏訪神党らに担ぎ上げられた時行は挙兵し、信濃守護の小笠原貞宗を撃ち破ると同時に信濃国衙を焼き討ちして国司を自刃に追い込むと、鎌倉奪還を目指して進軍を始める。対する京の建武政権は、反乱軍の旗頭が北条時行であるという情報を掴んでいなかったためか、木曽路から尾張国、そして京に至るルートで進軍すると考えていた節がある。その為、鎌倉を支配する鎌倉将軍府は対応が遅れた。各地で連戦連勝を重ねて建武政権の多くの武将を敗死させた反乱軍は、建武の新政下で東国を任されていた足利直義(足利尊氏の弟)にも勝利した。直義は幽閉していた護良親王を配下に命じて殺害させ、鎌倉から逃走する。時行は7月25日に鎌倉に入り、念願の鎌倉奪還を達成する。

 直義の敗走を知った足利尊氏は、征夷大将軍の称号を求めたが後醍醐天皇は、その称号を息子の成良親王に与えた。8月2日に尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま関東へ向けて出撃する。後醍醐天皇は尊氏に征東将軍の称号を追認した。直義と合流した尊氏の軍を、時行ら反乱軍は迎え撃つ。しかし、8月9日の遠江国橋本での交戦と敗戦を皮切りに、奮戦するも連敗する。19日に諏訪頼重・時継親子をはじめとして反乱軍の首脳が自刃して反乱は終結する。太平記ではその人数は43人と記されるが、その中に時行はなく、鎌倉から落ち延びた。北条時行が先代(北条高時)と後代(足利尊氏)の間に位置する人物ということから、この反乱は「中先代の乱」と呼ばれた。

 北条時行が鎌倉を支配できたのは20日ほどだったが、その後の影響は大きかった。足利尊氏は鎌倉に本拠を置き、中先代の乱での論功行賞を勝手に行い、これを新たな武家政権設立の動きととらえた後醍醐天皇との間で確執が起こり、建武の乱が起こる。この戦いに勝利した足利尊氏は、後醍醐天皇を京から追放した。吉野に逃れた後醍醐天皇は南朝を開く。尊氏は後醍醐天皇とは異なる皇統から光明天皇を即位させ北朝の歴史が始まると、延元3年/暦応元年(1338年)に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開く。この南北朝の時代は明徳3年/元中9年(1392年)まで続く。

 太平記によれば北条時行は延元2年/建武4年(1337年)に南朝に帰順した。なぜ彼が鎌倉幕府の滅亡や父である北条高時の死の原因となった後醍醐天皇につくという選択をしたのかには諸説ある。太平記では、その心情を、後醍醐天皇に対しては高時の死は高時に非があったとして恨んではおらず、大恩ある北条を裏切り幕府を滅亡させ、今再び後醍醐天皇を裏切り武士政権を立ち上げた足利尊氏・直義兄弟への復讐の念から、南朝についたとしている。

 延元2年/建武4年(1337年)に鎮守府大将軍・北畠顕家が奥州から京奪還の兵を上げ遠征を始めると、時行は5千の兵で挙兵した。同じころ、新田義興(義貞の子)が2万の兵で挙兵した。太平記はこれらの兵を吸収して北畠顕家の軍勢は10万にも膨れ上がったと伝える。12月の終わり頃、鎌倉攻略を開始。激闘の末、鎌倉を守る斯波家長を敗死させ、2度目の鎌倉奪還を果たす。翌年1月2日、北畠顕家の軍は京への進撃を開始する。幕府側との戦いが度々起こるが、青野原の戦いに勝利した後、兵力の損耗があまりに激しかったからか一旦京への進撃をあきらめ南の伊勢へと向かう。この時、北の越前で戦っている新田義貞と合流することを幕府は恐れていたとされる。何故そうしなかったのかは太平記よれば北畠顕家が義貞に功を奪われることを嫌ったからだと伝えるが、鎌倉幕府を直接滅ぼした総大将だった新田義貞を時行が嫌って北進に反対したと唱える歴史家もいる。しかし、伊勢を経由して京へ向かった北畠顕家の軍は5月22日、石津の戦いで敗北。北畠顕家は戦死する。総大将の戦死によって遠征軍は瓦解。生き延びた時行は雲隠れする。

 その後、時行は伊勢に潜伏していたとも、遠江に逃れたとも伝えられる。暦応3年/興国元年(1340年)、信濃国伊那郡大徳王寺城に籠城し、信濃国の守護、小笠原貞宗と戦ったという記録が残っている。4ヶ月の籠城戦の末、10月23日に落城。北条時宗は何処ともなく姿を消し、その後の足取りは史料も少なくはっきりしない。

 正平3年/貞和4年(1348年)ごろから室町幕府内で執事の高師直(と足利尊氏)と足利直義との間での主導権争いが激化。観応の擾乱という軍事衝突に発展する。直義は南朝と手を結び、観応2年(1351年)、摂津国打出浜の戦いで高師直・足利尊氏を撃ち破る。直義と和睦することになった高師直だったが、摂津から京への護送中に殺害された。その後は、直義は室町幕府の中で孤立していき、出奔する。今度は尊氏が南朝と組み、尊氏自身が擁立した北朝を自身の手で廃し、南朝から直義追討の綸旨を受ける。立て続けに直義軍を撃ち破った尊氏は、和睦交渉の末、京に直義を連れ帰る。直義は正平7年(1352年)2月に急死する。太平記では尊氏の命で毒殺されたという見解を示している。

 そのごたごたの間に力をつけた南朝は尊氏との和睦を破棄し北畠親房の立案による京と鎌倉の同時奪還を実行に移す。正平7年(1352年)閏2月20日、南朝方は京を制圧。旧北朝の上皇ら皇族を拉致し、尊氏は南朝の後村上天皇により征夷大将軍を解任された為、室町幕府は正当性を失い窮地に立たされる。同じ頃、関東でも新田義興・義宗兄弟が挙兵。信濃国でも征夷大将軍・宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じた諏訪氏が挙兵。時行も新田義興とともに鎌倉攻めに加わり、3度目の鎌倉奪還を果たす。

 しかし閏2月28日に小手指原の戦いで南朝の宗良親王と新田義宗は尊氏に敗れ、鎌倉は再び足利方に奪われた。3月15日には京も足利方によって奪取され、南朝の優勢は短期間に終わる。8月に後光厳天皇が擁立され、北朝が復活する。尊氏には再び征夷大将軍の地位が与えられ、室町幕府は正当性を取り戻す。鎌倉が奪還されて以後、潜伏・闘争を続けていた時行だったが正平8年/文和2年(1353年)5月に遂に捕縛され、鎌倉龍ノ口で処刑された。鎌倉幕府崩壊から20年。はっきりした享年は分からないが20代半ばくらいと考えられている。


【ストーリー】

 時は元弘3年(1333年)。幕府の本拠である鎌倉は平和だった。幕府の執権、北条高時には二人の息子がいた。兄の邦時と弟の時行。時行は弟ではあっても正室の子であったため、跡を継ぐのは彼の方だとみなされていた。しかし、時行は武の鍛錬を嫌がり、逃げ回る日々。臆病者と笑われる彼の逃げ足は、武の指南役ですら捉えられないほどだった。

 今でも北条氏は名目上は鎌倉幕府の頂点だったが、実権は側近に牛耳られていた。今となっては北条氏など神輿に過ぎず、武の腕など必要ないと時行は考えていた。武士としての尊敬は幕府の守護神と讃えられる足利高氏などが受ければいい。そんな時行の前に、諏訪大社の神官・諏訪頼重と雫という巫女が現れる。自らを神だという頼重は、時行が「天を揺るがす英雄になる」と告げる。

 平穏に過ぎるはずだった日々は、足利高氏の謀反によってあっさりと崩壊する。鎌倉には敵方の武士が蹂躙し、父である高時をはじめ、時行の身近な人たちも命を落とした。そんな中、時行は諏訪頼重に救われる。焼け出された神主の一行に扮して鎌倉を脱出する機会を狙っていた。そんな中、兄の邦時が伯父の五大院宗繁の裏切りによって命を落とした事を知る。頼重が時行のために抜擢した弧次郎と亜也子の力を借りて宗繁への復讐を果たした時行は、頼重とともに諏訪に辿り着く。

 諏訪大社の童に扮して鍛錬を積みながら、再び立つ日のために潜伏する時行の前に立ちふさがるのは諏訪国守護の小笠原貞宗。貞宗の傍若無人な振舞いに憤りを覚える時行だが、その弓の腕前は時行も見惚れるほどだった。諏訪の地で信頼できる仲間と巡り遭い、「逃若党」を結成する。逃げて、生きて、彼は英雄になる。


【感想】

 少年漫画では時代劇自体が珍しく思うが、ましてや舞台は鎌倉時代の終わりから南北朝時代。主人公である北条時行は教科書に中先代の乱で記述があるかもしれない。マイナーな時代、マイナーな人物なのは間違いない。よく企画が通ったなと思うが、そこはヒット作を連発した松井優征の作品だからだろうか。各々のキャラクターがしっかりと立っていて漫画的な面白さを追求した作品であるが、同時に史実としっかりと向き合った作品になっている。この作品で描かれた足利尊氏の異常なカリスマ性、行き当たりばったりにも思える理解不能な支離滅裂な行動、どこかサイコパスが混じった性格のキャラクターは、日本史の英雄の中で最も不可解な人物とも言われる足利尊氏の実像に最も迫った作品と言えるのかもしれない。