ビルマの竪琴(1985年)
DATE
日本
監督 : 市川崑
原作 : 竹山道雄『
ビルマの竪琴』
<主なキャスト>
井上隊長 : 石坂浩二
水島上等兵 : 中井貴一
伊東軍曹 : 川谷拓三
小林上等兵 : 渡辺篤史
岡田上等兵 : 小林稔侍
馬場一等兵 - 井上博一
村落の村長 : 浜村純
物売りの老人 : 常田富士男
鈴木上等兵佐 : 藤正文
三角山守備隊隊長 : 菅原文太
……etc
【作品解説】
1985年7月に劇場公開された市川崑監督作品。1947から1948年にかけて童話雑誌「赤とんぼ」に掲載され、1948年10月に中央公論社から単行本化された竹山道雄の同名小説が原作。市川崑監督は1956年にも同作を映画化しており、1956年版の和田夏十の脚本をもとに新たな演出を加えてリメイクされた。配給収入は30億円近くに達し、1985年の邦画では1番のヒット作となった。
【ビルマ戦線(1941年〜1945年)】
昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争勃発と同時に、日本軍は大東亜共栄圏の確立という大義名分を、東南アジアへの侵攻を開始する。アジアにおける民族の共存共栄を謳い、西洋列強の植民地下にあったアジア諸国の独立を支援する立場を取った。開戦直後の日本軍は東南アジアの列強を次々と撃ち破り、破竹の勢いで勢力を拡大させることになる。
ビルマ侵攻は昭和17年(1942年)1月に始まった。その目的は昭和12年(1937年)以来、続いていた日中戦争において、抵抗を続ける中国の蒋介石政府に対するアメリカやイギリスの支援を途絶する為であった。ビルマのラングーン(現在のヤンゴン)からの軍需物資の輸送ルート(ビルマルート)は、支援国からのいくつかの輸送ルートの中でも、かなり大きな割合を占めていた。日本軍は、ビルマのイギリスに対する抵抗や独立運動をしている組織に目をつけ、1年ほど前から独立運動家らを国外に脱出させ、軍事訓練を行った上で再度入国させ、ビルマ独立義勇軍を結成させた。ビルマ独立義勇軍への支援を名目にビルマに侵入した日本軍は、現地から強い支持を受けた日本軍は、ビルマの首都ラングーンを目指して諸都市を攻略していく。3月初めにラングーンが攻略された。インド洋では4月初めにイギリス軍の東洋艦隊をセイロン島沖海戦で撃破し、ビルマ沖のインド洋の制海権を握った。ビルマでは逃げ腰になった連合国軍を日本軍とビルマ独立義勇軍を追って北上していく形となった。5月初めにはビルマ全域から連合国軍を追い払った。ビルマ独立義勇軍はビルマ独立を達成したかったが、日本軍はそれに反対し、ビルマを実質的に日本軍が支配する状況となった。
ビルマの完全制圧によって日本軍はビルマルートを遮断できたと確信していた。しかし、連合国軍はインド東部からヒマラヤを超える空輸ルートを確保していた。日本軍は海上輸送の危険を避けつつビルマ戦線に物資の輸送を行うためにタイからビルマへ山脈を超えて約400qに及ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設に着手する。建設にはビルマ人、タイ人、マレー人、ジャワ人などの他、連合軍の捕虜数万人の、30万を超える人員が投入された。雨季の間も建設は強行された。コレラの流行もあり、昭和18年(1943年)10月の完成までに半数が死亡したという。
一方連合軍も、空輸ルートのみでは輸送に限界が出始めた。連合軍はインドのレドを経由し、ビルマ・中国の国境を越えサルウィン河を渡るレド公路の建設に着手する。これを阻止しようとする日本軍とアメリカ軍・中華民国の国民革命軍との間でフーコン谷の戦いが起こる。この戦いは昭和18年(1943年)3月から翌年6月まで続いた。ゲリラ戦で当初は優勢だった日本軍だったが次第に物量に押されるようになり、最終的には制圧された。また、イギリス領インド帝国に撤退したイギリス軍、インド軍によるビルマ侵攻の機先をつくために、拠点のインパールの攻略を目的としたインパール作戦が昭和19年(1944年)3月に実行に移される。補給が続かないからという理由で反対意見が大勢を占めていたが、第15軍司令官牟田口廉也中将の執拗な要請により決行された。実行前からの懸念は的中し、早々に食料は尽き、連れてきた食料用の牛も死に絶えた。前線の軍団は順調に進撃しているように見えたが、イギリス軍のあえて引き込んで補給路が伸びきった所を叩くという作戦であった。牟田口中将はそれに気付かず、日本軍にはひたすら前進あるのみという命令が下された。
疲弊しながらも何とかインパールに辿り着いた前線の部隊には食料も弾薬もなく作戦は完全に行き詰った。インパール作戦に参加した部隊の間には戦闘による負傷のみならず赤痢やマラリア、脚気などが蔓延し動けなくなる兵士が3分の1にも上ったという。独断で撤退の命令を出す師団長も出て、6月初めには作戦は事実上破綻していたが牟田口中将は作戦の失敗を認めず指揮官を交代させ、将兵は退くに退けない状況になった。撤退の命令が出たのは7月初めの事であった。食料の無い前線の兵士たちは、敵から逃れ、村落で食料を略奪したりジャングルの中で草などで食いつなぎながら、退却するが、疫病や飢餓によって次々と倒れた。その無残な退却劇は「白骨街道」などと言われる有様だったという。
ビルマの各地での戦いで劣勢に立たされる日本軍はイワラジ会戦(昭和19年(1944年)12月〜昭和20年(1945年)3月)で戦況の打開を試みるものの、イギリス軍に圧倒され全面崩壊に陥る。日本軍と心中する気はなかったビルマ国民軍は、抗日組織を結成し、日本軍に銃口を向けた。5月初頭にラングーンもイギリス軍に奪回された。イギリス第33軍団と戦い退路を断たれた第28軍が甚大な被害を被りな的中突破に成功した頃、終戦を迎えた。
敗戦によって日本はビルマの領土や権益をすべて失った。ビルマに投入された日本軍将兵30万を超えたが、そのうち6割が戦没した。12万弱の日本将兵が帰還することができたが、降伏してイギリス軍の捕虜となった日本兵は、報復として不衛生で劣悪な施設で飢えが蔓延する中での強制労働や、ビルマの独立勢力に対する人間の盾にされるなど過酷な環境で抑留されたという。イギリス軍によって抑留された日本軍将兵は1,500人以上が死亡し、祖国の土を踏むことはできなかったとされる。
【ストーリー】
終戦直前のビルマ。ビルマに派遣された日本軍が、連合軍の攻勢と糧食の不足などにより絶望的な状況に追い込まれていく中、転戦を続ける井上隊。隊長の井上以下、部隊の隊員の絆は、声を合わせて歌うことで強く結び付いていた。その中に、竪琴の名手、水島上等兵の姿があった。ビルマ人によく似ていた水島は現地の言語を解し、得意の竪琴を斥候の情報伝播の手段に用いていた。
日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をし、井上隊にも終戦の報が届く。イギリス軍に降伏をすることを決めた井上隊長は、まだ立てこもって抵抗を続けている部隊がいることを知る。同じ日本兵なら説得できるかもしれない。これ以上の犠牲を望まない井上隊長は、イギリス軍に抵抗する部隊に降伏を呼びかけることを申し出て、その難役を水島上等兵に託した。しかし、抵抗する部隊への説得は難航し、水島上等兵が帰らないまま、イギリス軍の攻撃が始まり、部隊は全滅し水島も生死不明となる。
イギリス軍の捕虜となった井上隊の面々は、橋の上でビルマの肩にオウムを乗せ僧侶の格好をしたビルマ人の青年とすれ違う。その容貌は、消息不明となった水島上等兵にそっくりだった。しかし、井上隊の兵士からの呼びかけに青年僧は答えずに逃げるようにして去っていく。その後も青年僧が水島ではないかとうかがわせる出来事が続いた。そう、水島上等兵は生きていたのだ。ビルマの僧侶に助けられた水島は、沐浴中の僧侶から僧衣を盗んで井上隊と合流すべく向かっていたのだった。しかし、その途中で日本兵のおびただしい遺体と遭遇した水島は、彼らをこのままにして帰るわけにはいかないと、ビルマに残ることを決心していたのだった。
水島の気持ちに井上隊長は気づいていたが、諦めきれない隊員たちは、親しくなった物売りの老婆からオウムを買い受け、「ミズシマ、イッショニ、ニホンニ、カエロウ」という言葉を教え込み、青年僧に渡してもらうよう託すのだった。そして、井上隊の兵士たちに、復員して日本に帰る日が近付いていた。
【感想】
イギリス軍の収容所の柵越しに日本兵たちが「水島! 一緒に日本に帰ろう」と叫ぶ場面はやはり感動的。無言のままに『仰げば尊し』を弾き、去っていく水島の姿は秀逸な場面だった。日本への帰国の願望と、残される日本兵の魂を弔いたいという奉仕の心の狭間で葛藤する水島を、中井貴一さんが見事に演じている。
見終わった後で、「まあ、自分は戦後生まれの人間だからな」とも思った。日本に帰る仲間たちを見送り、現地に残ることを決めた水島。水島の気持ちも分からなくはない。しかし、どうして水島一人がビルマの責任をかぶらなければならないのだろう、とも思う。彼にだって戻りたい故郷があるだろう。国家の命令で戦地に送られた日本兵もまた被害者ではなかったか。戦争が終わってからでさえ、兵士は水島のように罪の意識にさいなまれ、国家の責任を背負い続けなければならないのだろうか。