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妻と飛んだ特攻兵(2015年)



妻と飛んだ特攻兵(Amazon Prime Video)

DATE

日本
監督 : 田崎竜太
原作 : 豊田正義『妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻

<主なキャスト>

山内房子 : 堀北真希
山内節夫 : 成宮寛貴
道場一男 : 杉本哲太
西村強 : 八嶋智人
小熊勇 : 荒川良々
木下達夫 : 三浦涼介
重永キミ子 : 小西真奈美
井上ハナ : 竹富聖花
藤田真知子 : 趣里
道場悦 : 羽田美智子
井上文子 : 高島礼子
藤田秀雄 : 國村隼
広田大樹 : 萩原利久(昭和42年:伊嵜充則)
                   ……etc

目次
『妻と飛んだ特攻兵(2015年)』の作品解説
キーワード『ソ連の対日参戦(1945年)』
『妻と飛んだ特攻兵(2015年)』のストーリー
『妻と飛んだ特攻兵(2015年)』の感想


【作品解説】

 1945年8月9日に始まった中国東北部・満州国へのソ連軍の侵攻。15日のポツダム宣言受諾を宣言してもソ連軍の進撃は続いていた。わずかでも避難民が逃れる時間を稼ぐためにソ連軍への特攻を決意した11人の将校は「神州不滅特別攻撃隊」を結成し、8月19日、決行する。その中の一人、谷藤徹夫少尉の乗る機体には1年ほど前に結婚したばかりの妻・朝子も搭乗していた。なぜ妻を連れての特攻という思いに至ったのか――原作は豊田正義氏の渾身のノンフィクション。2015年8月16日にテレビ朝日系列で放送された実話をもとにしたテレビドラマスペシャル。


【ソ連の対日参戦(1945年)】

 1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけて起こった日露戦争や、1918年(大正7年)から1922年(大正11年)にかけて行われたシベリア出兵、1938年(昭和13年)の張鼓峰事件、1939年(昭和14年)のノモンハン事件などなど極東で日本とロシアや革命後のソビエト連邦(以降は「ソ連」と呼称)はたびたび対立し、戦闘行為が繰り返された。しかし、日本では満州方面への侵攻を目指す北進論が退けられ、南進論(東南アジアへの侵攻)が力を得るようになっていた。その為、1941年(昭和16年)4月に「日ソ中立条約」が締結された。ソ連は、この条約の締結によって同年6月に始まったドイツとの戦争(独ソ戦)を戦うにあたり極東での軍事的余力を得ることができた。

 しかし、ドイツの敗戦が濃厚となった1945年4月、ソ連は「日ソ中立条約の延長を求めない」旨を日本政府に通告した。条約の有効期間は5年間であり、1年を残していた。5月にドイツが連合国に降伏し、ソ連参戦が現実味を増すも、参戦は秋以降と満州を支配する関東軍の首脳は考えていた。しかし、ソ連モスクワ時間の8月8日午後5時(日本時間8日午後11時)にソ連は日本に対し宣戦を布告する。ソ連のモロトフ外相から宣戦布告を通告された佐藤尚武駐ソ連大使は、モロトフ外相から暗号を利用して東京へ公電を送る許可を得て、日本の外務省に宛ててソ連の宣戦布告を知らせる公電を打った。ところがソ連当局がこの公電を電報局で封鎖したため、日本政府がソ連参戦を知るのは武力侵攻が開始された9日0時(日本時間)から4時間遅れての報道によるものだったという。

 80個師団約157万人が3方向から満州に同時侵攻を開始した。5000両を超える戦車に自走砲、3000機を超える航空機が投入された。これに対し、関東軍の戦力は24個師団68万人。戦車・航空機ともに200程に過ぎず、戦力差は歴然としていた。10日夜には樺太への侵攻も開始される。満州国国境を守る第3方面軍の司令官は、玉砕覚悟でソ連の進撃路に戦力を集中しようとしたが作戦参謀らの反対にあって断念した。関東軍総司令官・山田乙三陸軍大将は撤退による持久戦を決断し総司令部を早々に後方の朝鮮半島付近の通化に移動させる。満州国皇帝・溥儀も、首都の新京を離れ、総司令部のおかれた通化近くの臨江に移動した。

 これは満州の居留している邦人は約155万人を見捨てるに等しい行動であった。しかも、若い男はほとんど軍に臨時招集されており、残っているのは女子供や老人ばかりである。満州では混乱して治安が悪化する中、日本人を殺害・略奪・凌辱する中国人も多かった。そんな中、8月14日に日本政府はポツダム宣言を受諾し翌日国民に向けて無条件降伏を表明する。関東軍の多くの部隊が武装解除に応じたが、ソ連軍の残虐非道な戦いぶりを知って武装解除後も抵抗した部隊も存在した。満州の軍民合わせて24万5千が命を落とし、満州と樺太の邦人約57万5千人が抑留され、シベリアでの過酷な強制労働の末、1割は生きて日本の地を踏むことはなかった。


【ストーリー】

 昭和20年6月、戦況悪化が著しい本土から、まだ平穏であった満州国へと房子がやってきたところから物語は始まる。満州の第5練習飛行隊で飛行教官の任にある陸軍の戦闘機乗り・山内節夫少尉が着任直前に結婚した妻である。空襲もなく今は平穏な満州で、第5練習飛行隊は特攻隊の訓練をしていた。節夫の育てた部下も多く特攻でこの世を去っており、自分が妻を呼んでの生活をすることに後ろめたさを覚えていたが、夫婦水入らずの生活を始めた。

 しかし、そんな穏やかな生活も長くは続かなかった。ソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州国への侵攻を開始したのだ。国境線はあっさりと破られ、身を守るすべを持たない開拓団は避難を始めた。節夫たちもろくに爆弾もないまま、ソ連軍の足止めのために飛ぶことになる。決行は15日。生きては帰れない任務になることは間違いない。房子は残された最後のわずかな時間を、噛み締めながら過ごすことを節夫に告げる。

 8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌日玉音放送によって節夫たちは戦いが終わったことを知らされた。しかし、ソ連軍が戦闘をやめる気配はない。しかも武装解除して航空機を引き渡し自分たちは捕虜になれという命令が下され、第5練習飛行隊の面々は憤りと戸惑いを隠せない。おまけに偵察に出た隊員が撮影してきたのは、懇意にしていた開拓団の人たちの無残な姿だった。第5練習飛行隊の11人の将校は、ソ連の戦車に特攻することを決意する。その中には節夫もいた。節夫の決断を聞かされた房子は、最愛の夫と共に逝く決意をする。


【感想】

 最近の若い人の中には8月15日が何なのか知らない人も多いそうである。終戦記念日が何時なのかも知らないなど嘆かわしいと思うが、8月15日が終戦と何の疑いもなく言えるのも、単に教科書を丸読みしているだけで、それでいいのだろうかとも思える。8月15日の後も、満州・樺太ではソ連の侵攻が続き、多くの犠牲者が出た。有名な樺太の女性電話交換手の集団自決の悲劇が起きたのは8月20日のことだった。9月2日にミズーリ号で降伏文書への調印が行われ、ようやく枢軸国対連合国という形での組織的な戦いは終結するが、その後も海外の日本人の軍人・民間人の帰国は困難を伴った。シベリアで抑留され、過酷な強制労働の末に死んだ日本人の2割はその素性が分かっていないという。抑留された邦人の帰国は1958年頃までにほとんどが叶ったが、ソ連の妨害によってシベリアに抑留された日本人の実態調査は進まず、帰国できたのはソ連が崩壊してから、という日本人もいたという。戦争を経験した日本人が減っていくことで、戦争をどう教えるのかという課題の解答を出すのは、これからさらに困難なものになっていくのだろう。

 山内節夫少尉と房子のとった道――あるいは11人の戦闘機乗りの最後の特攻を「理解できない」「是認できない」という人もいるだろう。夫だったら妻を何が何でも生かす道を選べよ。妻だったら夫の名誉よりも意地よりも夫の命を守る道を選べよ、と思う人もいたかもしれない。あの当時を知る人間と、戦後の平和しか知らない人間とでも温度差はあるだろう。それどころか、同じ時代を生き残った者どうしでさえ――生き残った第5練習飛行隊の元軍人に対し、元旧軍幹部は「ただの命令違反の自爆行為」と吐き捨てたという。戦後、9人の戦闘機乗りは戦死者と認められず(注、劇中では11人全員が死亡したように描かれているが航空機の不具合などで2名が生還した)、故郷に残された両親にも遺族年金の支給がされなかった。当時の厚生省への粘り強い働きかけによって戦死者として認められ、遺族年金の支給や靖国神社への合祀がなされたのは戦後10年以上が経った昭和32年のことであった。

 生まれた時代が違う。生きている場所が違う。それだけではあまりに切ない。誰かを生かすために捨て石になることを決意した男と、最愛の人と最後の時まで一緒にいることを選んだ女。それも一つの家族の形であったのかもしれない。戦争というのは関わった人たちの人としての尊厳を根こそぎ奪っていく行為だ。彼らが選んだ道は、その尊厳を守るための道であったのだと自分は思う。