マイ・バック・ページ(2011年)

DATE
My Back Page/日本
監督 : 山下敦弘
原作 : 川本三郎『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』
<主なキャスト>
沢田雅巳:妻夫木聡
梅山(片桐優):松山ケンイチ
倉田眞子:忽那汐里
前園勇:山内圭哉
……etc
【作品解説】
映画のキャッチフレーズは『その時代、暴力で世界は変えられると信じていた』――川本三郎の回顧録『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』の映画化作品。川本三郎は1971年の『朝霞駐屯地自衛官殺害事件』の主犯に関わり証拠隠滅や犯人隠匿の罪に問われ懲役10ヶ月執行猶予2年の罪に問われた元『朝日ジャーナル』記者である。
『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』では1968年から1972年に『週刊朝日』『朝日ジャーナル』の記者として活動し、東大安田講堂事件や三里塚闘争、ベトナム反戦運動などの取材談や出会った人たちとの思い出を1960年代の過激な新左翼運動へのシンパシーとともに追想している。そして、活動家を名乗るKとの出会い、先輩記者からたびたび忠告されながらずるずる続いてしまったKとの関係、自衛官殺害事件から逮捕、警察・検察での取り調べ、懲戒免職になるまでが、当時の心情とともに綴られている。
【朝霞駐屯地自衛官殺害事件(昭和46年(1971年))】
1971年(昭和46年)8月21日22時半頃。東京都練馬区の陸上自衛隊朝霞駐屯地で歩哨任務についていた一場哲雄陸士長が、20時40分に異常なしの連絡があった後、交代時間になっても現れなかったため、駐屯地内を捜索したところ血まみれで倒れているのが発見された。病院に運ばれたものの、既に死亡していた。一場陸士長は、後頭部に12ヶ所も挫傷しており、右胸は肺を貫通するほどの刺創が2か所、両手には複数の切創があり左手のものは骨にまで達していたという。一場陸士長は昭和44年3月に入隊した21歳の前途有望な隊員であった。
事件現場には「赤衛軍」と書かれた赤ヘルメットやビラなどが落ちており、一場陸士長の左腕の「警衛」の腕章が奪われていた。犯人は武器を奪う目的で駐屯地に侵入し、一場陸士長を殺害したと思われた。しかし犯人は目的を達せられなかったらしく一場陸士長の所持していた小銃は、近くの側溝に落ちていた。埼玉県警は、新左翼党派が起こした事件と判断し、捜査を行うが「赤衛軍」はこれまで事件を起こしたことがなく、警察にも情報がない組織だったため、捜査は難航した。しかし、『朝日ジャーナル』に「赤衛軍」幹部への単独インタビューの記事が載ると、記事にまだ公にしていなかった「警衛」の腕章が奪われていた事実が載っていたため、警察はこの取材源に注目。捜査の結果、日本大学と駒澤大学の学生3人が逮捕されるに至った。
犯人たちは、駐屯地に侵入し幹部自衛官の制服を盗み、幹部自衛官に変装して侵入したことや、一場陸士長から小銃を奪おうとしたものの、暗がりの中で見失い、断念したことなどを自供した。警察は犯人の自供から事件の首謀者として当時京都大学助手であった滝田修(本名:竹本信弘)を指名手配した。滝田は「一方的に着せられた身に覚えのない濡れ衣を官憲に対して自ら晴らさねばならない義務はない」という声明を出して10年にわたり潜伏し、1982年8月に逮捕された。その他、犯人の逃走を手助けたしたり、証拠を隠滅した「朝日ジャーナル」と「週刊プレイボーイ」の記者が逮捕された。
裁判の結果、主犯であり計画立案を行った22歳の日本大学学生の菊井良治には懲役15年。実行犯の元自衛官で駒澤大学1年生の新井には懲役14年、同じく実行犯の19歳の日本大学学生には懲役12年の刑が科せられた。また滝田修には幇助の罪で懲役5年が言い渡され、未決拘留日数が量刑を上回っていたため、即日釈放となった。テロリストの凶行で命を落とした一場陸士長には二等陸曹への特進の他、防衛庁長官2級賞詞及び2級防衛功労章、第二級防衛功労賞及び勲七等青色桐葉章が授与された。自衛隊はこの事件を受け、制服を着用した幹部自衛官であっても身分証明書の提示がなければ営門を通過できないように運用を改めた。
【ストーリー】
1969年――。沢田雅巳は「週刊東都」の新米記者として働いていた。ジャーナリストとしては青臭く、身分を隠しテキヤへの潜入取材を行った時は知り合った人たちに感情移入するあまり、感傷的な発言をして上役から嘲笑されることもあった。東大法学部大学院生だった沢田は、1月の東大安田講堂事件で機動隊によって学生運動家たちによって占拠された安田講堂が封鎖解除される様を、運動家たちとは関係のないところで目撃していた。社会の弱者救済を掲げ革命を目指す新左翼運動へのシンパシーを持ちながら、ジャーナリストとしての立ち位置から、沢田は欺瞞にも似た思いを抱えていた。沢田の葛藤をよそに、編集部ではアポロ11号関連の記事や新しく表紙を飾るモデルの倉田眞子の話題で盛り上がっていた。
1971年、沢田は「京西安保」の幹部を名乗る梅山という男と知り合う。「四月に行動を起こす」とうそぶく梅山のことを、先輩記者の中平は「ニセモノだ」と切って捨てる。しかし、沢田は些細なことから親近感を覚え、離れに匿うようになる。編集部では「週刊東都」が出版後6日で回収に追い込まれるという事件が起こる。中平は左遷され、沢田も「東都ジャーナル」へ異動することになる。「東都ジャーナル」は新左翼運動への関心も高く、かつては沢田も異動を求めていた週刊雑誌だったが、今となっては学生運動が下火になり購買数は激減していた。沢田は、梅山と新左翼運動のカリスマだった前園勇との対談の場を設けるのに尽力するなど梅山に協力していたが、中平から「梅山は信用できない」と忠告をうける。
沢田自身、梅山が沢田の同僚から借りた金を建て替えさせられたりといったことがあって不信を感じていた。中平から梅山という人間が「京西安保」と関りがなかった事実が突き付けられる。中平からの忠告を受け、梅山に彼が何者なのか問いただすと、問いをはぐらかしつつ梅山は数人の仲間とともに「赤邦軍」を結成し、自衛隊駐屯地に侵入して銃を強奪する計画を立てていると明かす。沢田はことが成った暁には、自分に独占取材をさせてくれと頼む。8月のある夜、梅山の指揮下の二人の男が陸上自衛隊の駐屯地に侵入した。
【感想】
朝霞駐屯地での自衛官殺害事件は1971年。時代を感じる音楽や、16㎜フィルムで撮影し拡大する手法でざらつきのある映像に仕上げたりすることで、1960年代から70年代前半の雰囲気を出そうとしていて好感が持てる反面、監督も脚本家も事件よりはるか後、新左翼運動がすっかり下火になってしまってから生まれた世代だからか、事件を、現在の――40年後の価値観を基準にした、突き放したような冷めた視点で捉えているのが印象に残った。
当時の新左翼運動をテーマにした作品は多い。現在の敗北を受け入れ社会に対し無関心を装う若者を否定し、革命という熱に浮かされた時代や義憤に駆られて過激な行動に走る若者を全肯定し「過激な青春、熱い時代に翻弄される若者たち」を前面に押し出した作品が悪いとは思わないが、今作では、梅山に対しても沢田に対しても、あえて対象と距離感をとることで、現在にも通じるテーマを浮かび上がらせていると感じた。ただ、最後までいまいち盛り上がりに欠ける映画だったと感じたのは、あの時代の熱を排除したが故のように思う。
この物語は、二人の挫折した男の物語である。同じ時代を生きた二人の若者。取材する側とされる側という違いはあれど、暴力革命という幻想に憧れ、実際に行動を起こし連帯する運動家に焦燥感を募らせ、社会や上司に一目置かれたいという欲求を抱える二人。胡散臭い革命家と、その誇大妄想な幻影にしがみついたジャーナリスト。傍から見ていると「まぁ、こうなるよね」と思ってしまう。青春の光と影、若さゆえの暴走と後悔――そんなありきたりの言葉で表現するのは簡単かもしれないが、視聴者の目の前では一人の若い自衛官の死がリアルに描かれる。必死で這いずりながら、最期を誰にも看取られることなく力尽きた自衛官を目撃した後には、警察の取り調べで自己肥大した妄想を吹聴する梅山の姿も、今更、何であんな男に……なんて苦悩する沢田の姿も全く共感ができないだろう。
ラストでタモツと再会して涙する沢田の姿も、私の目には、ただ真っ当に生きて、真っ当な幸せを手に入れているタモツと比べて、犯罪者となって夢も失って落ちぶれてしまった自分が惨めで泣いているだけにしか思えなかった。あるいは、あの時代を知っている人には、彼の涙に対する解釈は違うのだろうか。