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大奥(2006年)




DATE


日本

監督 : 林徹


<主なキャスト>


絵島 : 仲間由紀恵

生島新五郎 : 西島秀俊

月光院 : 井川遥

間部越前守詮房 : 及川光博

宮路 : 杉田かおる

天英院 : 高島礼子

        ……etc


目次
『大奥(2006年)』の作品解説
キーワード『絵島生島事件(正徳4年(1714年))』
『大奥(2006年)』のストーリー
『大奥(2006年)』の感想


【作品解説】

 2006年12月劇場公開。2003年からフジテレビ系列で放送された「大奥」シリーズの集大成的作品であり、完結篇として制作された。江戸時代、七代将軍・徳川家継(いえつぐ)の時代に起こった大奥最大のスキャンダル「絵島生島事件」をモチーフに、愛憎と謀略入り混じる大奥の争いが描かれる。総額で一億にもなるという女優の衣装代も当時は話題になった。



【絵島生島事件(正徳4年(1714年))】

 大奥とは、江戸時代の将軍や大名の、中国の王朝で言う後宮のようなもの。将軍の血筋を守るるために存在しており、基本的に将軍以外は男子禁制であった。「絵島(江島)生島事件」とは、江戸時代中期、7代将軍・徳川家継の時代に起こった、関係者1400名が処罰の対象となった江戸城大奥の綱紀粛正事件。きっかけとなった出来事の中心人物である江戸城大奥御年寄の絵島(江島が正しいとも)と歌舞伎役者の生島新五郎の名から、そのように呼ばれる。


 正徳4年(1714年)1月12日、大奥「御年寄」の地位にあった絵島が、自身が仕える幼少の将軍・徳川家継の実母である月光院の代参として、前将軍・徳川家宣の墓参りに、年寄の宮路らと共に歴代将軍の菩提寺である上野の寛永寺、芝の増上寺へ赴いた。総勢はおよそ130人。大名格の行列であった。絵島は甲府藩士・疋田彦四郎の娘で、彦四郎の死後、母が旗本・白井久俊と再婚したためその養女となった。初め尾張徳川家、次いで甲府徳川家に奉公し、甲府藩主・徳川家宣が第6代将軍に就任すると絵島も大奥に入り、家宣の側室であり家継の生母となるお喜世の方(月光院)に仕えた。絵島は月光院の右腕として今や、実質的な御年寄トップにまで出世していた。


 増上寺を後にした一行は、懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋「山村座」にて初春興行「東海道大石曾我」を鑑賞した。その後、山村座の役者らを招いて宴会が開かれ、日頃、大奥という閉鎖された世界で窮屈な生活を強いられてきた彼女らは、大いに楽しんだが、宴会が終わり江戸城に戻った時、大奥の門限に遅れてしまい、大奥七ツ口の前で「通せ」「通さぬ」の押し問答することになった。何とか中には入れたものの、「大奥」の規律の緩みが問題視され、評定所が審理する事態まで発展した。


 絵島には、山村座の役者、生島新五郎との密通の嫌疑がかけられた。事実上の大奥トップの奥女中が身分の低い役者と関係を持ったなどということになれば幕府の沽券に関わる。大奥の秘密が絵島の口を通じて外部に漏れていては一大事である。絵島には三日三晩に渡る厳しい尋問が行われたというが、絵島は最後まで認めなかった。呉服商の後藤縫殿助や山村座の生島新五郎にも厳しい拷問が行われ、生島は耐えかねて全てを認めた。


 絵島と生島には流罪が言い渡されたが、絵島には主である月光院の助命嘆願があったのか、3万3千石の譜代・信州高遠藩に預けられ、幽閉されることとなった。処分は同行した大奥関係者、大奥責任者の旗本、山村座の役者など1500名にも上った。山村座は廃業となった。監督不行き届きとみなされたか、絵島の異母兄の白井勝昌は斬首という過酷な処分をされている。


 この醜聞は、噂好きの江戸市民にも強いインパクトを与え、内外から注目された。その過程で月光院と将軍・家継の側用人である間部詮房との密通という噂もまことしやかに流れた。しかし、事件自体は不明であいまいな点が多く、何より絵島が最後まで密通の事実を認めなかったことから、何者かに仕組まれた事件であったという指摘は根強い。その黒幕として名が挙がるのが、前将軍・徳川家宣の正室であった天英院である。家宣の側室であり現将軍の生母である月光院との間で、主導権争いがあったと言われる。しかし、代参後の芝居見物や宴会は、本来許されてはいなかったものの、大奥に仕える女性たちの数少ない楽しみとして黙認されてきた。事件があまり大事になっては、代参自体が規制の対象となってしまう可能性があり、代参を利用して絵島――ひいては月光院を陥れようと画策したという説は現実的ではないという意見もある。


 また、6代将軍・徳川家宣はもともと甲府藩主であり、5代将軍・徳川綱吉の甥にあたる。綱吉の死後、将軍に就任した家宣は、甲府藩時代からの側近である新井白石、間部詮房らを重用し、大奥も天英院、月光院、絵島ら甲府から連れてきた者に牛耳られることになった。それは、家継の時代になっても続いていた。主導権を握る甲府閥の弱体を狙う幕府内の旧勢力の謀略という説も根強い。


 高遠藩にお預けとなった絵島は、27年の幽閉生活の末、寛保元年(1741年)、61歳で死去する。大奥の華やかな生活とは一変した、常に監視され、最低限の衣食住が確保されただけの、外部と関わることは手紙のやり取りすら許されない孤独な生活を送っていたという。絵島が幽閉されていた「囲い屋敷」は現在復元されて公開されている。享保7年(1722年)ごろから、藩主の厚意により幕府に赦免嘆願が出され、囲い屋敷の周辺をある程度自由に歩き回ったり、城の女性に礼儀作法の指導をすることもできるようになったという。しかし、大奥の話は一切しなかったという。生島新五郎は、絵島の死後、寛保2年(1742年)に赦免され江戸にもどるが、翌年73歳で死去する。一説によると、享保18年(1733年)に流刑先の三宅島で死去したとも言われ、墓所は三宅島にあるという。


 この事件の裏側に、大奥の陰湿な女の争いや、幕府の権力闘争があったのかはわからない。しかし、絵島生島事件の2年後、享保元年(1716年)に家継は8歳で早世した。直系の血筋がいなかったため、紀州藩主の徳川吉宗が8代将軍に就任することになる。吉宗は政治改革に取り組み、幕府の人事を刷新した。幕府は紀州閥が牛耳ることになり、表舞台からは新井白石や間部詮房などの甲府閥はもちろん、旧勢力も姿を消すことになる。



【ストーリー】


 それは七代将軍・徳川家綱の治世。家綱はまだ幼少で、側近の新井白石、間部詮房が支えながら政が行われていた時代。大奥では、前将軍の正室であった天英院と、家綱の生母である月光院が、二派に分かれた対立関係にあった。月光院に仕え大奥総取締の役目にあった絵島は、月光院の立場を守るために心を砕いていた。男子禁制の大奥であったが、家綱が幼いため、間部詮房が後見として出入りしていた。その間部詮房と月光院の間で芽生えた許されざる恋は、絵島の悩みの種となっていた。月光院の失脚を目論む天英院は、月光院と間部詮房とが情を通じているという噂を聞きつけ、それを白日の下に晒して二人を失脚させようと目論む。その為に、月光院の右腕である絵島を陥れようと策をめぐらせる。


 歌舞伎役者の生島に、絵島をたらし込んで弱みを握るように命じる。大奥を出て護摩の行に代参した絵島は、生島と出会う。それは、偶然の出会いだったが、男と関わることのない大奥を終の住処と決心していた絵島の感情を震わせるものだった。その後、生島と絵島は仕組まれた出会いを果たす。生島と度々出会い、心惹かれていくのを感じていた絵島。生島も、絵島の高潔な姿に、計略を離れて特別な感情を抱くようになる。


 間部詮房は、月光院との関係が自身の立場を危うくすることを怖れ、距離を置くようになる。そのことで心労を抱え、病に伏せることになった月光院。月光院の見舞いに行きたい気持ちを、幕府内の権力闘争と天秤にかけて躊躇う間部詮房を、家綱が後押しする。病床の月光院を見舞い、互いに慈しみ会う二人の姿を、今の絵島は理解できた。同時に、生島とのことをお終いにしようと決める。前将軍の墓参りの代参の後、芝居小屋で観劇した絵島は、生島と再会する。ところが、芝居小屋で放火事件が起こる。炎上する芝居小屋の中から生島に救い出された絵島は、それが天英院の罠と知りつつ、一度だけの関係を持った。



【感想】


 美しくも怖ろしい豪華絢爛な時代絵巻。まず、凛とした仲間由紀恵さんがとにかく奇麗な映画、というのが印象。一夜限りの逢瀬が儚い夢のようで美しい映画だった。同時に、裏側で女の園で繰り広げられるドロドロとした陰湿な陰謀と愛憎劇がとにかく怖い。そこに、表の世界の権力闘争が複雑に絡み合う。


 実を言うと、管理人はテレビシリーズは全く見ておらず一連のシリーズのファンというわけでもないので、この映画のみの感想なのだが、テンポもよく見やすい映画だった。管理人自身は「絵島生島事件」は、さわりをちょっと知っている程度の知識しかなく、そして映画自体は虚構なのではあるが、裏でこんなことがあってもおかしくないよなぁ、と感じられる映画だった。