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樅ノ木は残った(2010年)



樅ノ木は残った(Amaozn Prime Video)


DATE


日本

監督 : 橋本一

原作:山本周五郎『樅ノ木は残った


<主なキャスト>


原田甲斐 : 田村正和

宇乃 : 井上真央

伊東七十郎 : 山本耕史

おくみ : 床嶋佳子

茂庭周防 : 小林稔侍

伊達安芸 : 伊東四朗

伊達綱宗 : 中村橋之助

久世大和守 : 竜雷太

伊達兵部 : 笹野高史

慶月院 : 草笛光子

酒井雅楽頭 : 橋爪功

         ……etc


目次
『樅ノ木は残った(2010年)』の作品解説
キーワード『伊達騒動(万治3年(1660年)〜寛文11年(1671年))』
『樅ノ木は残った(2010年)』のストーリー
『樅ノ木は残った(2010年)』の感想


【作品解説】

 2010年2月にテレビ朝日系列他で放送されたドラマスペシャル。原作は1970年のNHK大河ドラマなど幾度かの映像化をされている山本周五郎の同名小説。小説は1954年から56年にかけて日本経済新聞に中断を挟んで連載され、1958年に講談社より刊行された。江戸時代前期に起きた伊達家が治める仙台藩でのお家騒動を舞台に、歌舞伎の演目『伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』などで悪役として扱われてきた原田甲斐を伊達家を守るための忠臣として解釈して描いた作品。2010年のドラマスペシャルでは田村正和が原田甲斐を演じている。



【伊達騒動(万治3年(1660年)〜寛文11年(1671年))】

 江戸時代前期に仙台藩・伊達家で起こったお家騒動は、江戸時代の三大お家騒動にも数えられる。ことの起こりは、仙台藩の三代藩主、伊達綱宗の時であった。綱宗は初代藩主・伊達政宗の孫にあたる。綱宗は二代藩主、伊達忠宗の六男であったが、後継者とされていた次男・光宗の死などがあり、藩主に就任することになった。万治2年(1659年)に就任した時は20歳の若さであった。しかし、酒乱気味で女遊びが激しく、藩政を顧みず家臣や親類の忠告にも耳を貸さないといった目に余る不行跡が目立ち、問題視されるようになる。仙台藩の支藩、陸奥一関藩主で政宗の末子にあたる伊達宗勝(兵部)や、岡山藩主・池田光政、筑後柳河藩主・立花忠茂、丹後宮津藩主・京極高国ら伊達家と縁戚関係にある大名などが集まり協議し、老中・酒井忠清に問題の解決のために綱宗や伊達藩の奉行(他藩で言う家老。この先では、家老と呼称する)に注意を促してもらうよう願い出る。しかし、それでも綱宗の行状は改まらず、幕府から命じられた小石川堀の大工事をおざなりにし、遊郭や芝居小屋に足を運ぶなど問題行動が続いたため、ついに伊達一門や家臣らが連署を行い、綱宗の隠居を幕府に願い出た。


 幕府も訴えを受け入れて伊達綱宗の隠居を決定した。万治3年(1660年)、綱宗は21歳の若さで隠居となり、まだ二歳の亀千代(後の伊達綱村)が藩主に就任する。二歳の亀千代に藩主の務めなど果たせようはずもなく、後見人として伊達宗勝、田村宗良(伊達忠宗の三男、綱宗の庶兄)が小山内藩主を支える立場となる。対等な後見人とはいえ、宗良よりも宗勝の方がずっと年長であり、宗勝は自身の息子と1664年(寛文4年)に幕府の中枢で権勢をふるう酒井忠清の養女を縁組させるなどして、大きな権勢を握っていった。実質的な藩主のように振舞う宗勝を支持する家臣と、藩主である亀千代を支えようとする家臣の間で対立は深まっていく。宗勝支持の家臣による亀千代暗殺の企てもあったという。さらに、仙台藩を支えるべき家老の間でも対立が見られ、綱宗の時代から藩を切り盛りしていた家老の奥山常辰と茂庭定元(周防)の対立の末、定元が辞任――実質的に解任される。しかし、家老としての権力を自分だけのものにした常辰も、やがて宗勝・宗良との関係が悪化し、1663年(寛文3年)、辞任に追い込まれる。この頃に、家老首座に就任したのが原田宗輔(甲斐)であった。宗輔は宗勝に積極的に協力し、1668年(寛文8年)の頃になると、宗勝は仙台藩の実権を大きく握ることになる。


 この情勢に対して、亀千代派(この頃は伊達綱基と名乗っていた)のリーダー格であった伊達村重(安芸)が、自身の領地の境界をめぐる争いや伊達藩における宗勝の専横について幕府に訴え出る、という行動に出る。これによって、伊達藩の権力争いは中央政界を巻き込むものとなった。1671年3月。幕府の老中・板倉重矩の屋敷にて審問を開始する。家老首座の原田宗輔と家老の柴田外記が出廷。宗勝の味方である宗輔と村重の味方であった外記の証言は食い違い、幕府はさらに家老の古内志摩を呼び出す。志摩もまた村重、外記の味方であり、宗輔は追い詰められていく。3月27日、後に「寛文事件」と呼ばれることになる事件が勃発する。その日、大老・酒井忠清の屋敷で開かれた審問の様子は詳しく分かっていない。しかし、原田宗輔は難しい立場に立たされたのだろう。審問が終わった後の控室で、宗輔は脇差を抜いて村重を斬殺する。老中のもとに向かおうとする宗輔と、それを追いかけた外記が斬りあいとなり、さらに騒ぎを聞きつけた酒井家の家臣なども混乱の中、刀を抜いての乱戦となった。その結果、原田宗輔、柴田外記もその場で絶命。巻き込まれる形で聞番の蜂屋六左衛門が命を落とした。


 この寛文事件はすぐに将軍・徳川家綱に知らされ、その後処理が話し合われた。幕府は、刃傷事件を私闘として処理し、まだ若い藩主の責任は問わなかった。しかし、綱基の二人の後見人には責任が厳しく問われた。伊達宗勝は仙台藩性を混乱させ刃傷事件の原因を作ったとされ、一関藩は改易となり伊達宗勝本人は高知藩山内家にあずけられた。田村宗良も、宗勝の専横を止められなかったとして閉門を命じられた。宗勝派の家老たちも、他藩へのお預けや家禄没収といった処分が下された。刃傷事件っを起こした原田宗輔の家族にも厳しい処分が下された。男子の息子や孫は養子に出されたものを含めて全員切腹や斬首。妻と娘も他家への預かりとなり、原田家は断絶した。



【ストーリー】

 万治3年夏。江戸に幕府が開かれてから60年が経とうとしていた。加賀百万石に次ぐ石高を誇る仙台藩62万石の藩内では、幕府が分割を目論んでいるという噂が流れていた。人目を忍んで密談を交わしているのは湧谷館主・伊達安芸、江戸家老・茂庭周防、藩吟味役・原田甲斐。噂は、仙台藩の石高を半減し、藩祖・伊達政宗の末子で一関藩主・伊達兵部に与えるというものであった。伊達兵部は老中筆頭・酒井雅楽頭との密約を交わされている、ともっぱらの噂である。いかに、幕府といえども何の落ち度もないのにそう簡単に仙台藩のような大藩を分割することなどできるはずがない。しかし、幕府がその気になれば、伊達藩に内紛を起こし伊達藩の禄高を減らすことも可能だ。原田は藩の前途に不吉なものを感じ取っていた。それからほどなく、予想は現実となる。藩主・伊達綱宗が遊興を理由に蟄居・逼塞させられることになったのだ。しかし、綱宗が目に余るほどの女遊びをしたような事実はない。伊達兵部と酒井雅楽頭の謀略なのは明らかだった。原田はすぐに綱宗に会いに行くが取り次いでももらえない。さらに綱宗の側近にも資格が差し向けられる。その中で生き延びた娘・宇乃は、原田の屋敷に逃げ込み匿われることになった。


 伊達家は幼少の亀千代が継ぎ、伊達兵部が貢献となった。原田のところには伊達家家臣の伊藤七十朗がやってきて伊達藩をめぐる恐るべき企みについて声を荒らげる。しかし、我関せずの態度に終始する原田に激怒する。原田は兵部が持ってきた縁組や、態度を保留していた国老への就任を受けて、兵部に接近する姿勢をあからさまにしていく。江戸での原田は江戸屋敷以外に、伊達藩に出入りする業者の妹のおくみという女のところで過ごすことが多かった。そこに、寛永寺参詣から帰る途中に休息したいと酒井雅楽頭が立ち寄る。浪人を名乗り酒井と話す原田は、その傲慢な態度に不快を覚え、酒井が差し出した盃を決して受けようとしなかった。


 兵部の治める一関藩での金山帰属に関わる問題でも兵部の肩を持つ発言を繰り返し盟友たちも離れていく。国許に帰り病気療養をしていた茂庭周防の無念の死。亀千代の毒味役を務めていた原田家家中の若者・塩沢丹三郎が亀千代暗殺に巻き込まれ命を落とす。伊達藩の行く末を憂い伊達兵部襲撃を企てた伊藤七十朗の憤死。原田の身の回りで、伊達藩の将来を憂う者たちが命を落としていく。心の中で彼らに詫び、心の中で涙を流しながら、本心を隠して兵部に忠実な臣のように振舞う原田。この情勢を打破するため、伊達安芸は幕府に訴え出ることを決める。兵部の名代として幕閣の前で申し開きするために江戸に向かうことになった原田は、ついに目的のものを手に入れる。



【感想】

 これまで1970年のNHKの大河ドラマをはじめ、何度も映像化されている名作文学の、映像化作品とあって、差別化は難しい作品だと思う。実力俳優を集めた重厚で本格的な時代劇。伊達藩のために己を殺し、盟友たちに蔑まれても忠を尽くした男を田村正和さんが見事に演じている。自分がすべての汚名を被って死ぬことを選択した原田。その最期に何を思うのだろう。伊達藩のために命を懸けたという満足だろうか。残された者に対する憂いだろうか。それでもきっと、後悔はしなかったのだろうな、と思う。


 とはいえ、伊達騒動自体が10年以上に及ぶ長い物語であるし、それぞれがそれぞれの思惑があって動いた末の結末であったと思うので、もっと掘り下げてほしかったとも思う。連続ドラマなどでもっと時間を取って映像化してほしかったな、とも思う。