あなたは 人目の訪問者です。


戦火の勇気(1996年)





DATE

Courage Under Fire/アメリカ
監督 :エドワード・ズウィック

<主なキャスト>

ナット・サーリング大佐 : デンゼル・ワシントン
カレン・ウォールデン大尉 : メグ・ライアン
モンフリーズ軍曹 : ルー・ダイアモンド・フィリップス
ハーシュバーグ将軍 : マイケル・モーリアティ
イラリオ特技兵 : マット・デイモン
                 ……etc

目次
『戦火の勇気(1996年)』の作品解説
キーワード『湾岸戦争(1991年)』
『戦火の勇気(1996年)』のストーリー
『戦火の勇気(1996年)』の感想


【作品解説】

 ハリウッドが初めて湾岸戦争(1991年1月17日〜同年3月3日)を正面から描いた作品。戦場という極限の状況を舞台とした、戦争ドラマというよりも人間ドラマ。同じシチュエーションを複数の人物の視点から真相に迫っていく手法が用いられているため黒澤明監督の「羅生門」の影響を指摘する声もある。最も重要な役どころであるカレン・ウォールデン大尉を演じるメグ・ライアンの好演はさすが。ラブコメ以外の作品はこれが初めてだったというメグ・ライアンの演技の幅の広さを証明する作品にもなっている。


【湾岸戦争(1991年)】

 1990年当時のイラクは8年にわたって続いたイラン・イラク戦争を経て、ペルシア湾沿岸の一大軍事国家として台頭していた。しかし、戦費調達のために多額の債務を負っていたことや、折からの原油価格の下落といった要因によって、経済的には苦境に立たされていた。イラクは原油価格の下落はクウェートとアラブ首長国連邦の過剰な原油生産が原因であるとして非難していた。また、クウェートからイラン・イラク戦争中に融資した負債の返済を求められたことも、イラクのサダム・フセイン大統領の怒りを買い、両国の対立は深まっていった。フセイン大統領は、クウェートの背後にはイラクを陥れようとするアメリカの陰謀があると考えていたという。

 1990年8月2日。イラク軍がクウェート国境を越えて侵攻を開始した。アメリカ国防情報局(DIA)は、信仰準備を整えていることを把握していたが、クウェートに対する威嚇の類である可能性が高いと考えており、対応が後手に回ることになった。侵攻開始30分後には、イラク軍の特殊部隊がクウェート市に対してヘリボーン強襲を実施。海からも上陸作戦が行われた。クウェートの王族を捕らえ、イラクによる併合を認めさせようとしていたが、逃亡を許し目論見は失敗した。すかし、わずかな時間でクウェートの主要な機関や軍事施設を占拠し、傀儡政権を立てて4日には「クウェート共和国」の樹立を宣言した。国際社会がそれを認めないと見るや8日にはイラクの19番目の県として併合を宣言した。

 これらの行為に国際社会は非難の声を上げ、国連安全保障理事会は侵攻が始まった2日のうちにイラク軍の即時撤退を求める決議を採択した。6日には加盟国に対イラクへの経済制裁を義務付ける決議、9日にはイラクによるクウェート併合を無効とする決議が採択された。しかし当事者であるアラブ諸国はイラクへの非難に足並みがそろわず、アラブ諸国だけでの事態終結は望むべくもなかった。アメリカは、イラクの脅威にさらされることとなったサウジアラビアから了解を取り付けてサウジアラビア国内で軍を展開。西側諸国やアラブ諸国から有志国家を募り、イラクへの軍事対抗を行った。しかし、それでもイラクのサダム=フセイン大統領は撤退に応じなかった。

 1991年1月17日、アメリカを中心とする多国籍軍はイラク攻撃――作戦名「砂漠の嵐作戦」を開始する。ここに湾岸戦争が勃発する。地域紛争において何らからの形で米ソの2大国が対立する国際状況が終わり、ソ連もアメリカによる軍事行動を支持したのは、フセイン大統領にとっては誤算であったかもしれない。国際社会が国連決議のもとに団結して軍事行動を行ったのは、冷戦後の唯一の超大国としてアメリカが台頭する時代の象徴でもあった。主戦場はイラク、クウェート、サウジアラビア国境地域だったが、イラクはパレスチナ問題を抱えるイスラエルにスカッド・ミサイルによる攻撃を行い、戦争を中東全域に拡大させようと試みた。しかし、アメリカはイスラエルの反撃を自重させ、目論見は失敗に終わった。

 40日以上に及ぶ空爆ののち、多国籍軍は2月24日、陸上部隊を投入。約100時間の戦闘ののち2月28日イラク軍はクウェートから敗走。クウェート解放という所期の目的が達成されたため多国籍軍は戦闘を停止し、停戦を宣言。湾岸戦争は終結し、サダム=フセイン政権は存続したものの、イラクは多国籍軍の監視下におかれ、厳しい経済制裁下におかれることとなった。

 日本は多国籍軍に参加することはなかったものの、100億ドルを超える資金を提供した。しかし、戦後、クウェート政府による感謝の中に日本の名前は入っておらず、アメリカをはじめとした多国籍軍からは日本の対応を「あまりに遅くあまりに少ない」と批判され、人的貢献を行わなかったことでも非難されることになった。戦闘終結後の同年4月、当時の海部内閣はペルシャ湾へ海上自衛隊の掃海部隊を派遣した。これは海上自衛隊が練習航海以外で日本領海から遠く離れた地域で活動した初めての事例であった。翌年には国連平和維持協力法(PKO法)が成立し、国連の平和維持活動への自衛隊の参加の道が開かれた。湾岸戦争は冷戦構造の終わりという時代の変化を突きつけられた日本が、「国際貢献」という美名のもと、専守防衛の自衛隊の海外派遣へと舵を切ることになったのが、日本にもたらした最大の影響であった。


【ストーリー】

 湾岸戦争の時に戦車部隊の隊長であったナサニエル・サーリング大佐。作戦中に味方の戦車を誤射し、友人を死なせてしまった過去を持っていた。湾岸戦争の終結後、彼には贖罪の機会も与えられないまま、軍にとどまり、国防総省の軍のセレモニーなどを扱う部署で勤務していた。サーリング大佐は過去を引きずり酒に逃げ、妻との仲もうまくいかなくなりつつあった。

 そんな彼に名誉勲章候補者の調査が命じられる。候補者はカレン・ウォールデン大尉。孤立した補給部隊の救援に向かい、戦死した女性士官である。受賞となれば、初の女性の受章者となるため、格好の宣伝材料になると国防総省の幹部たちは大乗り気だった。調査を進めるサーリングは、生存者たちの証言を集めるにつれ、不可解な点に気付く。証言がまちまちで食い違うのである。

 ウォールデン大尉の部隊の生き残りの兵士は4人。2人からは彼女は勇敢だったという証言が得られた。しかし、除隊してプロボクサーを目指していたモンフリーズ軍曹は、戦場で常に自らの安全ばかりを考える臆病者だったと証言する。事実を求めて調査を進めるサーリング大佐に国防総省上層部から圧力がかかる。全ての真実が明らかになっていないと、サーリング大佐は衛生兵のイラリオから証言を得ようとするが、彼は所属部隊から忽然と姿を消していた。


【感想】

 戦場を舞台にしたミステリー作品ではあるが、戦闘の派手さなどの娯楽的な部分も強く、演出の仕方も実験的で興味深い。この映画への批判の一つに、敵であるイラク兵の正義が全く無視されているというものがあった。作中“敵”として顧みられることのないイラク兵の存在に対し、“正しい戦争”を遂行する“勇敢なアメリカ人兵士”の姿しか出てこない。そのことにある種の不快さ、嫌悪を感じる部分があるのは否めないと思うが、そもそもプロパガンダ色のない戦争映画・歴史映画ってあんまり知らない。そのことはある程度前提として映画は観るべきではなかろうか。

 この場で、湾岸戦争の……アメリカの正義について書くことはしないしできない。だが、どんなに大義を語ろうと、命を落とし、心に傷を負うのは末端の兵士たち。サーリングが追い続けたのは何だったのだろう? カレン・ウォールデン大尉最後を追いながら、かつての自分を探しているような感がある。真実とは何か? 勇敢で、最後まで味方と仲間のために命をはった女性士官……後になって作られた虚像ではなく、死の間際の真実を追うことの意味とは何なのだろう。結果、1人の優秀な兵士に、臆病者のレッテルを貼った。恐らくは、その場で瀕死の仲間を置いて逃げ出そうとしたり、上官を見殺しにしたことに最も驚いていたのがモンフリーズ自身だったろう。どんな勇敢な人間でも、圧倒的劣勢の中で、闘志を保ち続けることは難しい。ウォールデン大尉が、闘志を保ち続けた理由は、士官であるという自負や誇りだった。しかし、最後に露わにされる彼女の姿も、決して勇敢とはまた違うものだった。真実を明らかにし、すべてを語ること以外には、救済されるすべはないということなんだろうかと感じさせられる作品である。