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風と共に去りぬ(1939年)





DATE

Gone with the Wind/アメリカ
監督 : ヴィクター・フレミング

<主なキャスト>

スカーレット ・オハラ: ヴィヴィアン・リー
レット・バトラー : クラーク・ゲイブル
アシュレイ : レスリー・ハワード
メラニー : オリヴィア・デ・ハヴィランド 
ジェラルド・オハラ : トーマス・ミッチェル
エレン・オハラ : バーバラ・オニール
マミー : ハティ・マクダニエル
ドーリー : ジェーン・ダーウェル
トム : ウォード・ボンド
           ……etc

目次
『風と共に去りぬ(1939年)』の作品解説
キーワード『風と共に去りぬ(Gone With the Wind)』
キーワード『アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)』
『風と共に去りぬ(1939年)』のストーリー
『風と共に去りぬ(1939年)』の感想


【作品解説】

 1939年に制作されたアメリカ映画。1936年6月に出版されたマーガレット・ミッチェルの同名小説が原作。アメリカ南北戦争の前後を舞台に、南部の上流貴族の優雅な生活から戦争によって全てを失いながらも力強く生きる女性の半生を描いている。ベストセラーとなった小説の映画化権を映画製作者のデヴィッド・O・セルズニックが買い取り、当時の金額で400万ドルを投じ、3年の歳月をかけて制作された。セルズニックは十人以上の脚本家の陣頭指揮を執り、当時はまだ一般的ではなかったテクニカラーを導入するなどの技術を取り入れるなどし、実質セルズニック監督作品などと言われるような妥協しない制作姿勢でこの3時間40分をこえる超大作を作り上げた。

 同年12月15日にアトランタでプレミア公開されてからは、アメリカのみならず世界的大ヒットとなった。第12回アカデミー賞では12部門に13人がノミネートされ、9部門で受賞した。ビデオの時代が訪れまでは毎日世界のどこかの町の映画館で上映されていると言われるほど長い間愛され続けた。現在でも映画ファンの中には、生涯のNo.1作品と評する者も多い。日本では1952年に公開された。まだ戦禍の記憶も生々しく、しかし復興に邁進していた日本人に、「風と共に去りぬ」の主人公、スカーレット・オハラの生き様は大きな共感を呼んだのか、日本でも大ヒットとなった。


【風と共に去りぬ(Gone With theWind)】

 1936年に刊行されたアメリカの女性作家、マーガレット・ミッチェル(1900年〜1949年)の小説。アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)の前後を舞台に、南部アトランタの裕福な農園主の娘、スカーレット・オハラの波乱万丈な半生を壮大に描いている。マーガレット・ミッチェルもジョージア州のアトランタで兄二人いる家族の末っ子として生まれ、幼年期に南北戦争の辛苦を味わった母方の親戚から影響を受けていたという。また、1919年に大学生だった時に母親が病死し、退学してアトランタに戻ら猿を得なかった経験が、「風と共に去りぬ」のラストに反映されているという。

 マーガレット・ミッチェルが「風と共に去りぬ」を書き始めたのは1926年の頃だったという。負傷で思うように動けなくなっていた彼女に、夫のマーシュが勧めたことがきっかけだったという。そこで豊富に知識があった南北戦争を舞台に自身の半生を投影した作品を、療養中の楽しみとしながら書いた。1929年には怪我は回復し、原稿はほぼ完成していた。夫に読んでもらうことはあったものの、当初はこの作品を公開する気はなかったという。その後、出版社の編集者で友人のハワード・ラザムがアトランタへ来た際、この原稿を彼に渡すことになった。積み上げられた原稿の量は小柄なマーガレット・ミッチェルの背丈より高かったという。公にする気のなかった小説が編集者の目に留まるきっかけは、友人のからかいの言葉であったというが、勢いで原稿を渡してしまったことを後悔し、「原稿を返してください」と電報することになった。原稿を読んでベストセラーになると確信したラザムは、出版を熱望する手紙を返したという。

 1936年6月に「風と共に去りぬ」は出版された。その題名は、アーネスト・ダウスンの恋愛詩「シナラ」からのものであるという。南北戦争という“風”によって、古き良き南部の白人の貴族文化が消え”去った”ことを表現しているという。翌年には150万部を売り上げ、ピューリッツァー賞小説部門を受賞するなど、商業的にも社会的にも大成功をおさめた。反面、南部白人の視点からのみで書かれた作品であり、「奴隷制度の肯定し、雇い主である白人農園主を美化している」「白人至上主義団体を肯定している」として人種差別を助長するという批判が常に付きまとっている。



【アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)】

 アメリカ大陸の東海岸の13州がイギリスから独立(1783年)してから約70年。アメリカは時間をかけてフランスやスペインから買収したり、併合したりしながら西へと国土を広げ、大陸国家としての性質を強めていく。その中で、北部と南部では産業構造や政治体制が異なり、早い時期から対立が始まっていた。寒冷な北部は農業に不適だったため商工業が中心で、温暖な南部では大規模な農地で綿花や煙草などの栽培が主な産業であった。南部では労働力の大半を黒人奴隷に頼っていた。この頃のアメリカ合衆国では奴隷制は各州の判断に委ねられていたが、北部の企業家らの中では、奴隷は労働者の向上意欲を削いで近代化の妨げになるという考えが広まっていた。奴隷制を認める南部(奴隷州)と認めない北部(自由州)とに分かれ、1820年には北緯36度30分以北には奴隷州をおかないと定めたミズーリ協定が結ばれた。この協定は僅差で下院を通過したが、この決定に引退していたジェファーソン元大統領はアメリカの国家分断の未来の端緒となりかねないと憂慮していた。

 ミズーリ協定が結ばれた頃のアメリカの州は22州で、自由州と奴隷州は11州ずつで均衡していた。それから時を経て、アメリカはアメリカ・メキシコ戦争(1846年〜1848年)でカリフォルニアを割譲させ、西海岸に到達する。当時のアメリカの州は34あり、北部の自由州が19、南部の奴隷州が15と数の上では均衡し、対立は激しさを増していた。北部と南部の対立は奴隷制に対する認識の違いによるものばかりでなかった。対立の種は、例えば、工業化を推し進める北部はイギリスなどからの輸入品に制限をかける保護貿易を求めていたのに対し、綿花などをイギリスなどに輸出して大きな利益を上げていた南部は自由貿易を求めるなど、様々な所にあった。1954年にミズーリ協定が破棄され、カンザス・ネブラスカ法が制定される。これによって、自由州か奴隷州かは州の住民が決められることとなった。同じ年、奴隷制反対論者を中心に、共和党が結成される。1860年11月、共和党のエイブラハム・リンカーン(1809〜1865年)が第16代アメリカ大統領選挙にされたことによって、その対立は頂点を迎えた。

 妥協の試みがなかったわけではないし、リンカーンが奴隷解放を明言したわけではなかったが、南部の警戒感は最高潮に達した。12月にサウスカロライナ州が先陣を切ってアメリカ合衆国から脱退を宣言する。これに続きミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も脱退を宣言。この南部の7州は2月にアメリカ連合国の建国を宣言。ジェファーソン・デヴィスを初代大統領に選出した。3月にリンカーンがアメリカ合衆国大統領に就任。アメリカ連合国に加盟した各州の要塞は連合国の支配下に置かれたが、サウスカロライナ州のサムター要塞の守備兵は撤退を拒否し、あくまでもアメリカ合衆国に忠誠を誓った。サムター要塞は戦略上さして重要ではなかったが、リンカーン大統領は、合衆国に忠誠を誓った将兵のために支援を決定する。4月12日から14日にかけて起こったサムター要塞での戦いが南北戦争の発端であるとされる。リンカーン大統領は合衆国に残った各州にも軍事的な支援を求めたが、南部の諸州の反感を買い、5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州もアメリカ連合国に加わった。もっとも、全ての奴隷州がアメリカ連合国に加わったわけではなく、デラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、バージニア州の西部(現ウエストバージニア州)は合衆国に残った。リンカーン大統領はそれらの奴隷州への対応にも苦慮することになる。

 南北戦争は4年も続く、アメリカ合衆国の歴史上、唯一にして最大の内戦である。リンカーンが大統領に就任したとき、アメリカ合衆国(以後は北部、または北軍と呼称する)もアメリカ連合国(以後は南部、または南軍と呼称する)も戦争ができる状況にはなかった。とはいえ、北部と南部では工業力、経済力、人口など北部が大きく上回っていたうえ、戦争となれば南部は一から軍を作り上げなければならない。リンカーン大統領は当初は短期間で勝利を収められると考えていたという。しかし、正規軍であるアメリカ合衆国陸海軍の士官約300名が職を辞して南軍に身を投じ、北軍を苦しめることになる。戦いは広範囲にわたり、大きな戦いだけで50を数えた。エンフィールド銃やスペンサー銃といった最新のライフル銃や最大射程2000ヤード(約1800m)の大砲などが戦場に持ち込まれ兵士たちの頭上には鉄の雨が降り注いだ。最終的に両軍合わせて60万人を超える戦死者を出す凄惨なものとなった。

 サムター要塞での戦いをはじめ、1861年の7月の第一次ブルランの戦いなど、緒戦でリー将軍などの名将を有した南軍が立て続けに勝利したことで戦争は長期化する。リンカーン大統領は、戦争勃発直後からこの内戦に乗じてアメリカを分裂させようとする外国勢力の武器や支援品の搬入を防ぎ、南部の資金源を断つために海上封鎖を行い、これが後の北軍の勝利の一因になったと見る歴史家もいる。南軍が1862年9月のアンティタムの戦いに敗北した頃から戦局は北軍優位に変化していく。南軍は物量に勝る北軍に次第に押されるようになり、戦場は南部へと移行していく。そんな中、リンカーン大統領は1863年1月に反乱に加わった州の奴隷を解放するという「奴隷解放宣言」を出す。前年9月に予備宣言が出されており、これは反乱に加わっている州に速やかに帰順するようにという警告であったが従う州はなかった。リンカーン大統領が奴隷解放宣言を出したことで、この戦争の目的はアメリカ合衆国の分裂を防ぐ為から奴隷を解放する為のものに変わった。南部の黒人の間にも動揺が広がり、内外の世論――特に、すでに奴隷制度を廃止していたイギリスの世論に大きな影響を与え、イギリスの南北戦争への介入への牽制とした。

 1863年5月、チャンセラーズヴィルの戦いに勝利した南軍のリー将軍率いる北バージニア軍は、北部の物量に押されてじり貧となりつつあった戦局をひっくり返すために、北部への侵攻を開始する。侵攻を阻止しようつする北軍との幾度かの会戦が起こった。1863年7月、南北戦争最大の激戦とされるゲティスバーグの戦いが起こる。両軍合わせて16万5千を超える兵が集結。3日間にわたる戦いの末に北軍の勝利に終わるがリー将軍がバージニアに逃げるのを許してしまう。11月にゲティスバーグの激戦地の跡でリンカーン大統領は有名な「人民の人民による人民のための政治」という演説を行い民主主義の理想を掲げた。1863年の終わり頃までに北軍はミシシッピ地域をほぼ制圧した。しかし戦争はまだ続く。1864年11月から12月にかけて北軍のシャーマン将軍がアメリカアトランタから南東約400キロ先の港町サバナまで、鉄道などのインフラや産業基盤、個人の資産――それら南部の物質的・精神的な支柱を徹底的に破壊しながら進撃した。後に「シャーマン将軍の海への進撃」と呼ばれる進撃は、北部の勝利はゆるぎないものとなった。同時に、後の世界大戦で現実のものとなる総力戦の時代を予想させるものとなった。

 1865年4月2日に南部の首都リッチモンドが陥落する。同月9日にはリー将軍が北軍のグラント将軍に降伏。凄惨な内戦はようやく終わりを告げた。再びアメリカ合衆国へと復帰した南部は軍政下に置かれ、南部の人たちは反発、対立が続くことになる。解放されたはずのに対しての人種差別も、その後も根強く残ることになった。リンカーン大統領は大統領に再選し1865年3月に2期目に突入していたが、戦争終結から数日後の4月15日、南部支持者によって射殺され、戦後のアメリカ合衆国のためにその力を振るうことはできなかった。


【ストーリー】

 それはまだアメリカに奴隷制度が残る1860年代。アメリカ南部のジョージア州では、北部との戦いが迫り高揚していた。社交界のアイドルだったスカーレットは、ひそかを思いを寄せているアシュレーが結婚しようとしていることを知る。婚約者はアシュレーの従姉妹のメラニー。それでもスカーレットは上流階級の若者たちが集まるパーティの場でその想いを伝えようとした。しかし、想いを伝えられないまま南北戦争が勃発。アシュレーは戦地へと向かう。

 ヤケになって友人の一人と結婚したスカーレットだったが、結婚相手は戦地で命を落とし、早々に未亡人になってしまう。静養に訪れたアトランタで2人の人物に再会する。一人はメラニー。もう一人は傲岸不遜な性格でスカーレットが忌み嫌っていたレット・バトラーという人物だった。レットはスカーレットの中の凶暴さにも似た力強さに好感を持っていた。戦争は、南軍が劣勢に立たされるようになり、戦火はジョージア州北西部のアトランタにも迫っていた。そんな中、メラニーの出産のときが迫っていた。大砲の音は街中にも響きわたる。戦地から送り返されてきた苦しむ傷ついた兵士たち。そんな中、メラニーは無事に出産するものの、出産の手伝いをしていたスカーレットは脱出する機会を失い、出産終えたばかりのメラニーや生まれたばかりの子供もろとも途方に暮れることになってしまう。

 レットの助けもあり、何とか故郷であるタラの農園へとたどり着く。
しかし、そこで目の当たりにするのは戦争と北軍の駐屯によって荒廃した故郷だった。絶望の中でスカーレットは、必ずや生き延び、運命と戦い抜くことを誓う。戦争は終わったが、それは南部の敗北。そして、スカーレットは全てを失ったことを意味していた。戦後の苦境の中、スカーレットは、風と共に去ってしまった古きよき時代の時代を夢見て、時に卑怯といわれるような行動をとりながらも再起を図ろうとする。しかし、彼女は確実に何かを失っていた。最後にスカーレットは本当に大切なものに気付くのだが……。


【感想】

 南北戦争はアメリカ史上唯一の内戦である。歴史上、合衆国本土が戦争によってこれほどのダメージを負ったことはないだろう。莫大な大砲とライフルと弾丸が戦場に持ち込まれ、前線の兵士たちの上には鉄の雨が降り注いだ。そんな中だから、生まれたばかりの命が、とても素晴らしいものだと気付く。生きるという意味を、改めて考えさせられる作品である。

 映画史を語るうえで外せない名作とはいえ、3時間半を超える時間に手を出すのを躊躇っていた作品だった。実際に見たら……実のところを言えば、スカーレットにも、アシュレーにも、メラニーにも、バトラーにも、誰一人共感も感情移入もできなかった。しかし、あれほど長い作品にも関わらず最後まで見通してしまったのは、この作品のもつ力というか魅力であり、この数十年、映画ファンに愛され続けてきた作品だと納得した。