ヴィクトリア女王 最期の秘密(2017年)
DATE
VICTORIA & ABDUL/イギリス,アメリカ
監督 : スティーヴン・フリアーズ
<主なキャスト>
ヴィクトリア女王 : ジュディ・デンチ
アブドゥル・カリム : アリ・ファザル
ヘンリー・ポンソンビー : ティム・ピゴット=スミス
ウェールズ公エドワード : エディー・イザード
モハメド : アディール・アクタル
ソールズベリー首相 : マイケル・ガンボン
……etc
【作品解説】
日本では2019年1月に劇場公開されたアメリカ・イギリス合作の映画。作家シャラバニ・バスの著書『Victoria and Abdul: The True Story of the Queen's Closest Confidant』が原作。インドを支配下に置いていたイギリスのヴィクトリア女王と、インド人のアブドゥル・カリムの交流を描いている。
VIDEO
【ヴィクトリア女王(1819年〜1901年)】
イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王であるヴィクトリア女王(1819年〜1901年)は、ジョージ3世(1738年〜1820年)の第4王子であるケント公エドワード・オーガスタス(1767年〜1820年)の娘として生まれた。出生時の王位継承順位は3人の伯父と父に次ぐ第5位だった。ジョージ3世の王子のうち、長子のジョージ4世(1762年〜1830年)にはシャーロット(1796年〜1817年)という娘がいたものの早世してしまい、他の王子には子供がいなかった。そこで議会は独身の王子たちに資金援助をちらつかせて由緒ある貴族の娘と結婚させて後継者を急ぎ作らせようとした。借金まみれだったケント公も、この誘いに乗ってドイツの小領主の未亡人と結婚し、1819年に生まれたのが後のヴィクトリア女王であった。同年代の王位継承権を持つ者の中では最も年長であったが、他の王子のところに男子が生まれた場合、そちらが王位継承権で上位になってしまうため、生まれた頃のヴィクトリアの立場は不安定なものだった。
1837年に伯父のウィリアム4世が死去したため、18歳の若さで女王に即位する。ウィリアム4世は生前、ヴィクトリアの母のケント公妃が何かと干渉しようとするのを警戒し、引き離そうとしていたという。しかし、女王となったヴィクトリアは、母が政治に口を出さないように毅然とした態度を示したという。イギリスの政治体制を象徴して「王は君臨すれど統治せず」という言葉がある。ヴィクトリア女王はその体現者と言われることもある。しかし、即位した頃のヴィクトリア女王には、政治的手腕もカリスマ性もなかった。立憲君主制や議会内閣制に関する知識にも疎く、特に外交面で余計な介入をしようと試みることもあったという。しかし、ウィリアム4世の頃からの首相であったメルバーン子爵ウィリアム・ラム(1779年〜1848年)を重用し、彼の影響の下で君主としての見識を深めていく。
1840年に同い年の従兄弟であるザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(1819年〜1861年)と結婚。美青年であり知性と教養を兼ね備えていたアルバートに、ヴィクトリアの一目惚れだったという。アルバートは女王に王としての在り方を示し、枢密院に加わり公私にわたり女王を支えた。仲睦まじい家庭で4男5女に恵まれ、成人した子供たちの多くはヨーロッパ各地の王族と結婚し、ヴィクトリア女王は。アルバートの非凡な才覚はメルバーン子爵やその後を継いだロバート・ピットからも認められ、アルバートの微妙な問題が起こると女王より先にアルバートに助言を求めていたという。王室の改革や1851年のロンドン万博を成功に導くなどの功績を残したアルバートだったが、1861年12月に腸チフスを患い42歳で薨去した。アルバートの死は女王に衝撃を与え、約10年に渡り公務の場から遠ざかった。首相のベンジャミン・ディズレーリの説得で公務に戻ってからは誠実に女王としての職務に励んだが、生涯喪服を脱がなかったという。
約64年の長きにわたりヴィクトリア女王はイギリス帝国(大英帝国)の国家元首として君臨し、その間に10倍もの海外の領土を獲得した。1877年にはイギリス領インド帝国の初代インド皇帝にも即位している。ヴィクトリア女王が統治した時代を「ヴィクトリア朝」と呼んだりして、イギリス帝国(大英帝国)の栄光を象徴する人物と語られる。産業革命によって工業化したイギリスは、「世界の工場」として安い原材料と労働力を調達するために、そしてその工業製品を売りさばくための市場を得るために、莫大な植民地を欲した。1840年の阿片戦争では清に阿片を密輸し、それに対し清が取り締まりを強化したら、それを口実に戦争を吹っ掛け、上海など5つの港を開港させ、香港島を割譲させた。経済力と軍事力を背景とした強引で傲慢で強欲で厚顔な帝国主義は反発を招き、各植民地では叛乱が相次ぎ、数々の戦争を戦うこととなった。しかし、イギリスが莫大な植民地を獲得し、経済的に?栄し、建築や芸術など文化的にも発展したこの時代は、古代ローマ時代のパクス・ロマーナ(ローマによる平和)にちなんで、パクス・ブリタニカと呼ばれることもあるイギリス帝国の最盛期であった。1901年、脳出血で倒れたヴィクトリア女王は81歳の生涯を終えた。
【ストーリー】
1887年――。イギリス領となったインドのアグラ市。刑務所の記録所で働くインド人のアブドゥルは、「ヴィクトリア女王即位50周年式典で、記念金貨"モハール"を献上する役目」に選ばれたと上司に告げられる。イギリスのヴィクトリア女王は、インド帝国皇帝の地位にもあったが、イギリスを訪れたことはなかった。アブドゥルが選ばれた理由は、アブドゥルが選んだ博覧会の絨毯を気に入られたことと、アブドゥルが長身で会ったことだった。アブドゥルは栄誉なことだと喜ぶが、一緒にイギリスに行くインド人のモハメッドは不満を感じていた。モハメッドは背の低い男で、本来アブドゥルと一緒にイギリスに行くはずだった候補者が象から落ちて怪我をしたため、急遽代役として仕方なくイギリスへ行くことになったのだった。イギリスの大きな商船に乗ってイギリスへと渡った2人。船上では、アブドゥルとモハメッドにはイギリスの高官から"女王陛下とは決して目を合わせてはならない"といったことをはじめ、王宮での振る舞いや礼儀作法などについて厳しく教わることになる。そのインド人を見下した態度にモハメッドは不快を露にする。
航海を終えてイギリスへと到着したアブドゥルとモハメッド。イギリスのウィンザー城では、豪華絢爛な式典が始まった。通路で自分たちの出番を待っている2人は、豪勢なご馳走や、使用人たちのテキパキした動きに圧倒される。それでも記念金貨を運ぶ大役を何とかこなしたアブドゥルとモハメッド。その時、アブドゥルはヴィクトリア女王と目が合った。側近からインドからの献上品の金貨の感想を聞かれた女王は、「ノッポの方はハンサムだった」と答える。帰国の準備をしていたアブドゥルとモハメッドは園遊会でゼリーを女王に渡す役目を与えられ、帰国が伸びることになる。その時、アブドゥルは女王に跪きつま先にキスをして周囲を騒然とさせる。しかし、ヴィクトリア女王はアブドゥルを気に入り、祝典期間中、インド人の2人を従者にすることを命じる。
女王にインドの絨毯の話をするアブドゥル。インド皇帝でありながらインドに足を踏み入れたことがないヴィクトリア女王は、アブドゥルが語るインドの文化に魅了されていき、インドの言葉を教えてほしいとまで言い出す。ヴィクトリア女王はヒンズー教徒の言葉を教わるつもりだったが、アブドゥルは「最も高貴な言葉」であるとムスリムの言葉を教える。インド人でありムスリムであるアブドゥルに傾倒していくヴィクトリア女王の姿に、皇太子をはじめとした子供たちや首相などの側近、王宮の使用人らは、日々心配を募らせていく。そんな心配をよそに、女王は自身の個人的な悩みをアブドゥルに吐露するようになり、"ムンシ"と呼ぶようになる。これはムスリムの言葉で心の師を意味するものだった。さらに、アブドゥルが妻帯者であったことを知ると妻を連れて戻ってくるようにといったん帰国させる。そんなヴィクトリア女王への礼としてムスリムの掟に従ってベールに覆われた妻の顔を女王にだけ見せた。インドの彫刻や絨毯を取り寄せ、インドの宮廷と同じ「孔雀の玉座」を再現した王の間を完成させたヴィクトリア女王は、そのお披露目の場で、招待客にアブドゥルや自分の子らを出演させた寸劇を披露する。アブドゥルをインド帝国皇帝に役を与え、インドの王族である自身の子らを跪かせるという行為に、招待客は驚愕し、首相は「インド人に宮廷を乗っ取られた」とアブドゥルを排斥するように秘密裏に行動を始めた。
【感想】
どのくらい史実を描いているのかは分からないが歴史の影に隠された秘話の映画化、という触れ込み。物語の最後に、アブドゥルは帰国して8年後に亡くなったことや、2010年にアブドゥルの日記が発見され、イギリス王室が歴史の影に葬った女王とアブドゥルの物語が世に知られることになったことが語られる。ヴィクトリア女王がアブドゥルと出会ったのが即位50周年の時だとしても、女王はそれから10年以上の間女王として君臨し続けた。それだけの間、寵愛を受け続けた植民地の異教徒がいたとしたら全ての記憶からも記録からも消し去れるものだろうか……。
物語自体は丁寧に描いた作品だと感じた。最初はコメディタッチに王宮での生活が描かれる。王宮のしきたりというのは、どこの国でもどこか芝居がかっていて、第三者の目から見ればどこか滑稽でほのぼのとしたに見える。物語が進んでいくと、ヴィクトリア女王とアブドゥルの交流を通じて、女王の抱える孤独や、王太子バーティ(後の子供たちや側近、政治家たちとの対立が浮き彫りになっていく。今作でヴィクトリア女王を演じたジュディ・デンチは20年前の1997年にも『Queen Victoria 至上の恋』でヴィクトリア女王を演じている。『Queen Victoria 至上の恋』では夫のアルバートの死後にふさぎ込んでしまったヴィクトリア女王を、アルバートの信頼厚かったスコットランド人の使用人ジョン・ブラウンとの交流を描いている。王の抱える孤独を堂々と描けるのは開かれた王室を目指してきたイギリス王室の歩みがあってのことだろう。
微笑ましく見られた作品だったが、少々一方的に過ぎないか、と思えた。老年に差し掛かった孤独な女性が、新たな出会いを通じて生きる気力を取り戻していく物語、として見れば、良質の映画である。女王の顔がアブドゥルとの交流を通していきいきとしたものにかわっていくのは印象的。人の縁の不思議や互いの持つ文化や思想などへの敬意をもって接することの大切さを感じる。しかし、一般市民ならそれでいいかもしれないが、王と従僕との関係としては如何なものだろうか。アブドゥルは劇中で時折、野心的な言葉を発する場面もあるものの、基本的には女王への敬意で忠誠を尽くしている。しかし、インドとイギリスの関係は、そんな単純なものであったか。イギリス支配下のインドでは数百万単位の餓死者が出るような大飢饉が何度か発生している。それどころか、1973年〜1974年にかけてインドのビハール州やベンガル州などでで飢饉が起きた時はビルマから米を緊急輸入して最悪の状況を抑え込んだが、イギリス本国の役人は現地政府は金をかけすぎたと非難した。それがイギリスのインド人の命に対する認識であった。1877年のヴィクトリア女王のインド帝国皇帝即位も、500万とも言われる餓死者が出ているさなかでの出来事であった。情報網が発達した現代とは違うから女王のインドに対する無知、無理解、無関心を批判できないとはいえ、インドの情報をたった一人の従僕に全依存する女王の姿勢も、時には嘘を交えながら奇麗なことだけを伝えようとするアブドゥルの態度も、果たしてあるべき関係であると言えるのだろうか、とも思う。