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グラディエーター(2000年)





DATE

GLADIATOR/アメリカ
監督 : リドリー・スコット

<主なキャスト>

マキシマス : ラッセル・クロウ
コモデゥス : ホアキン・フェニックス
ルッシラ : コニー・ニールセン
プロキシモ : オリヴァー・リード
マルクス・アウレリウス : リチャード・ハリス
グラックス : デレク・ジャコビ
ジュバ : ジャイモン・フンスー
              ……etc

目次
『グラディエーター(2000年)』の作品解説
キーワード『古代ローマの剣闘士』
『グラディエーター(2000年)』のストーリー
『グラディエーター(2000年)』の感想


【作品解説】

 2000年5月に公開されたアメリカ映画。古代ローマ帝国の時代を舞台に陰謀によって剣闘士に身を落とした英雄が復讐を果たす。CGで描かれたや映像美、迫力ある戦闘場面や練り上げられたストーリーなどが賞賛され、大きな商業的成功を収めた。批評からの評価もよく第73回アカデミー賞や第58回ゴールデングローブ賞の作品賞を受賞した。2024年に続編の『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』が公開された。

 映画である以上、史実性を絶対視する必要はないと思うが、大ヒットとなった映画だけに、「誤った古代ローマについての知識を与える」という非難を受けた作品でもあった。リドリー・スコット監督は古代ローマの文化や歴史に敬意を持ち、できる限り古代ローマを忠実に再現しようと試みたという。その為に数人の古代ローマの専門家を時代考証に招いたが、作品を盛り上げるための演出上の創作やマルクス・アウレリウス帝やコモドゥス帝に対する独自の歴史解釈などによってたびたび衝突し、少なくとも一人の歴史考証役が降板したという。




【古代ローマの剣闘士】

 古代ローマと言えば現在のローマを代表する観光地である円形闘技場(コロッセオ)――建設当時の正式名称はフラウィウス円形闘技場だったという――を思いつくという人も多いだろうだろう。記録上もっとも古い剣闘士の試合は紀元前264年のユニウス・プルトゥス・ペラの葬儀の時だったという。葬儀の際に剣闘士の試合を行うのは、南イタリアで古代から行われていた風習がもとになっているという。共和制ローマの末期の頃までの剣闘士試合は葬儀の場などで私的に行われる見世物だったが、人気の見世物だったために、やがて選挙と結びつくようになる。候補者が気前よく剣闘士試合を開催してみせることで、民衆の人気を獲得し、選挙で票を集めることができたのだった。その為、剣闘士試合の過度な選挙戦への利用を避けるために、出場できる剣闘士の数を制限する法律も作られたという。

 ユリウス・カエサル(紀元前100年〜紀元前44年)は何度か大規模な剣闘士試合を開催した。古代ローマ人に人気のあった見世物が猛獣狩りだったが、剣闘士試合と猛獣狩りを一緒に開催して民衆に披露したのもカエサルだったという。剣闘士の多くはローマをはじめ各地に設置されていた剣闘士養成所から調達されていた。剣闘士となるのは市場で手に入れられた奴隷や、戦争捕虜などであった。古代ローマは対外戦争を繰り返し、領土の拡大を繰り返していたため、大量の戦争捕虜を手に入れた。これら異民族の剣闘士が、己の民族の衣服を着用したり武器を使うことで闘技場の戦いをバラエティ豊かなものにした。また、交戦的な性情ゆえか、スリルや金を求めてか、自らの意志で闘技場に上がる自由人もいた。剣闘士の10人に2人はこうした自由人だったという。また古代ローマの時代は罪人の処罰も人気の見世物だった。罪の重いものは猛獣に食われたり、猟師の狩りの獲物にされたりして、苦しみと恥辱の中、命を落とした。

 古代ローマの帝政に移行した後の1世紀終わり頃には剣闘士試合は専ら皇帝によって主催されるようになる。地方都市でも開催には皇帝の許可が必要になった。勝者には栄光が与えられ、莫大な土地が与えられたり、奴隷としての剣闘士の立場から解放されたものもいた。戦いに支払われる報酬は、庶民から見ればかなりの大金が支払われた。観客からは入場料などは取らないで行われていたので、少々の金持ち程度では剣闘士試合など開催できなかった。観客たちは開催した皇帝や有力者をたたえ、支配者層にあたる主催者はその威信を高め、被支配者は支配者の統治を受け入れることに一役買っていた。

 剣闘士の試合にレフェリーがおり、死ぬかギブアップするかによって決着がついた。敗者の命をどうするかは観客に委ねられた。無様な試合をした敗者には観客は容赦なく死を与え、健闘した敗者には名誉ある生が与えられた。そんな血のショーに歓喜し政治に無関心になっていった古代ローマ人を詩人ユウェナリス(60年〜130年)はパンとサーカスという表現で表した。政治家であり哲学者だったルキウス・アンナエウス・セネカ(?〜65年)は剣闘士試合を「人をいっそう非人間的にさせる」と批判した。しかし、そのような古代ローマ人は少数であった。

 時を経てキリスト教がローマに普及していくにつれ、キリスト教徒の知識人などから剣闘士試合が嫌悪する声が聞こえるようになり、325年にコンスタンティヌス帝が最初の禁止令を出すと、剣闘士試合は次第に行われなくなっていった。


【ストーリー】

 時は帝政ローマの時代。ゲルマニアでは蛮族との戦いが繰り広げられていた。ローマ軍の指揮を執るのは平民出身のマキシマス将軍であった。マキシマスが蛮族に降服を促すために送った使者は首を切られ、熾烈な戦いが始まる。蛮族の軍勢に苦戦を強いられるローマ軍。しかしマキシマスは自ら騎兵を率いて蛮族の後ろに回り勝利を収める。そんな戦場へ兵士たちを激励に来た皇帝マルクス・アントニヌスは、傷ついた兵士たちの姿に帝国の終わりを感じていた。マルクス・アウレリウス帝はローマ帝国は原点に――共和政に立ち戻るべきだと考えていた。それを導いていけるのはマキシマス将軍を置いて他にいないとも。しかし、そこには問題があった。マルクス・アウレリウス帝の息子、コモドゥスの存在である。そのことで難色を示すマキシマスに、帝位を継ぐつもりでいるコモドゥスは自分が説得して納得させる、というマルクス・アウレリウス帝。マキシマスは「時間が欲しい」と答える。

 コモドゥスは、マルクス・アウレリウス帝と姉のルッシラとともにゲルマニアに来ていた。コモドゥスはそろそろ父から帝位が譲られるものと考えていたが、マルクス・アウレリウス帝から帝位をマキシマスに譲ると告げられる。コモドゥスは父からかつて贈られた言葉を持ち出し、自分を息子だと認めたくないようだと訴える。父が誇りに思えるような息子になりたかったと言うコモドゥスに、「息子が至らぬのは、至らぬ父を持ったせいだ」と和解の抱擁を求めるマルクス・アウレリウス帝。コモドゥスはその父を殺害し、自らが帝位につくことを宣言する。マルクス・アントニウス帝の崩御を知らされたマキシマスは、コモドゥスに暗殺されたことを悟る。忠誠の誓いを求めるコモドゥスを一瞥したマキシマスは、すぐさまマルクス・アントニウス帝の死の真相を公のものにしようと行動を起こそうとするが、コモドゥスはマキシマスを殺害しようと兵を送り込む。自分を殺そうとする兵を返り討ちにしたマキシマスは、故郷へと向かう。しかし、懐かしい地で見たのは、マキシマスの帰りを待つ妻と子の変わり果てた姿だった。

 生きる気力を失ったマキシマスは、奴隷商人に拾われる。そしてプロキシモという剣闘士の胴締めに買われる。無気力となっていたマキシマスだったが、もともとの兵士としての才覚から圧倒的な実力をみせつけ、剣闘士として頭角を現していく。血を求めて歓喜する観客たちに怒りをぶつけるマキシマス。そんなマキシマムに、プロキシモは新たな皇帝が大々的に剣闘士試合を開催していることを教える。さらに、勝者には皇帝と謁見するチャンスや自由になるチャンスがあることも。マキシマスの胸に復讐の炎が燃え上がる。真意を隠して「自分も自由になりたい」という言葉にプロキシモはほくそ笑む。

 ローマの元老院議員の間では、凱旋したコモドゥスが、これまで止められていた剣闘士試合を再開し、観客の喝采を浴びていることを皮肉を込めて話していた。皇帝の権力の源泉はローマ市民の支持に他ならない。それをコモドゥスは理解していた。コモドゥスへの復讐心を糧に剣闘士として覚醒したマキシマスは、ローマのコロッセウムでの戦いに参じる。ザマの戦いを模した集団戦において、圧倒的不利に状況での戦いでありながら、かつての将軍としての統率力を発揮して勝利に導く。その戦いぶりを目の当たりにしたコモドゥスは直々に労ってやろうとマキシマスの前に姿を見せる。兜を取ったマキシマスは、コモドゥスへの復讐の言葉を口にする。恐怖したコモドゥスは、マキシマスを殺そうとするが、観客の殺すなというコールに断念せざるを得なかった。マキシマスの生存を知ったルッシラは、コモドゥス排斥をたくらむ元老院議員とマキシマスを引き合わせようと画策する。



【感想】

 剣闘士同士の戦いを楽しむ作品で、ストーリーは薄く感じたが、古代ローマを舞台としたエンターテイメント作品としては十分面白く楽しめた作品だった。古代ローマの五賢帝と呼ばれた最後の皇帝マルクス・アウレリウスや、暴君コモドゥスといった実在の人物の名も並ぶが、時系列は大きく改変されたり、歴史研究者の中では否定されているコモドゥスによる父帝暗殺などが採用されていたり、歴史を勉強する上ではあまり参考にできないとは思う。しかし、コモドゥスがマキシマスを殺したいと願いながらローマ市民の人気が下がってしまうのを恐れて実行できなかったり、古代ローマらしさはよく出ていると思う。皇帝権力の礎がローマ市民の支持という割には、歴代にたくさんの暴君が出現しているのも不思議だが。

 ホアキン・フェニックスが演じたコモドゥスは、見ていて少しずつ感情移入して気の毒になってしまった。もちろん、全く同情ができない悪役でやっていることは断罪されても仕方ないのだが、彼なりに悩んでいて、彼なりに憂いていて、彼なりに父の愛を求めていて、彼なりに父を超えることを望んでいて……不幸なのは、皇帝の息子などという分不相応な立場で生まれてきてしまったからだろうか。悲しいかな、歴史を紐解けばそんな不幸は山のようにある。