ガーディアン−ハンニバル戦記−(2006年)
DATE
HANNIBAL/イギリス
監督 : エドワード・バザルゲット
<主なキャスト>
アレクサンダー・シディグ
ベン・クロス
バシャル・ラハル
ウリザール・ビネフ
ヴィンセント・リオッタ
ショーン・ディングウォール
……etc
【作品解説】
紀元前3世紀。第二次ポエニ戦役の時代。イタリア半島を支配下に置き、海外へと勢力を伸ばそうとしていたローマを震撼させ、最大の危機に陥らせたカルタゴの名将、ハンニバル・バルカの生涯を描いた2006年制作のBBCのTVドラマ。
【第二次ポエニ戦役(紀元前219年〜紀元前201年)】
紀元前3世紀。イタリア半島を支配下に置いたローマにとって急務となったのが、穀物の供給体制の確立であった。その為にローマの元老院が目を付けたのがイタリア半島の西にある穀物の生産地であるシチリア島の奪取であった。同じころ、北アフリカのフェニキア人の都市国家カルタゴは、西地中海の覇者として君臨し、シチリア島は貿易の中継地としてや穀物の主要な産地として重要な役割を担っていた。早晩、この両者が激突するのは自明であった。紀元前264年から紀元前241年にかけて、ローマとカルタゴの間に第一次ポエニ戦役が勃発する。これは、ローマによるカルタゴの西地中海の覇権に対する挑戦でもあった。
ローマの陸軍は、傭兵が主力のカルタゴの陸軍を次々に蹴散らすが、海戦においてはカルタゴが優勢であった。しかしローマは、漂着したカルタゴの軍艦を模して5段櫂の軍艦の建造に着手し、カルタゴの軍艦に自軍の軍艦を強制的に接舷させて軍団兵を乗り込ませるという大胆な作戦でカルタゴ海軍に挑んだ。これにより戦況は変わり、一度は執政官レギウス率いる大軍をカルタゴの目と鼻の先であるチェニスに送り込むところまでローマはカルタゴを追い詰めたかに見えた。しかし、スペイン人の傭兵将軍クサンティッポスらによってこの試みは頓挫し、再び戦いはシチリア半島が舞台となる。
ここでシチリア島のカルタゴ軍の最高司令官として登場するのが、若き名将ハミルカル・バルカである。もしも彼が第一次ポエニ戦争の初期にその任にあれば、たちまちローマ軍を蹴散らし、ローマに屈辱的な条約を結ばせたであろう。そう後世の歴史家に言わしめるほど、ハミルカルは戦術の鬼才であった。ところがカルタゴの元老院は、ローマを相手に圧倒するハミルカルを危険視した故か、それとも妬みからか、単に金を出し惜しんだか、十分な援助を行わず、ローマに止めを刺すには至らなかった。そうこうしているうちに6年の時が過ぎ、カルタゴ艦隊がローマ艦隊にエガテス沖の海戦で敗れ、カルタゴはシチリア島の補給路を失った。もはやカルタゴはローマに和を乞うしかなく、「カルタゴはシチリア島から完全に撤退すること」「カルタゴは賠償金として2200タラントを20年賦でローマに支払うこと」などの一方的な条件を飲んでの興和となった。そのうえ、カルタゴは戦後、命を賭して戦った傭兵たちへの報奨金を出し渋り反乱を招いてしまう。その機に乗じたローマは西地中海のサルジニア、コルシカを奪い、追加戦費として1200タラントを要求した。カルタゴはこれを飲まざるを得なかった。傭兵たちの反乱を鎮圧したハミルカルは、失ったシチリア島の代わりに国力を養う新天地としてイベリア半島(スペイン)を制圧した。
第二次ポエニ戦役の主役であるハンニバル・バルカは、ハミルカルの長子である。ハミルカルは紀元前228年に没していたが、イベリア半島の経営は軌道に乗り、カルタゴ本国はイベリア半島からの富で潤い、昔日の姿を取り戻そうとしていた。これを警戒するローマは度々警告と干渉をおこなった。紀元前221年に起こったハンニバルの義兄でありイベリア総督であったハスドルバルの死もローマの放った刺客によるものだったと言われる。紀元前219年、ハンニバルはカルタゴ領内のローマの同盟都市であったサグンツムを攻略。ここに第二次ポエニ戦役の火ぶたが切って落とされる。紀元前218年春。ハンニバルは戦象37頭、騎兵18000、歩兵90000の軍勢を率いてローマへの進撃を開始した。
ローマは執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオの4万の兵をマッシリア(現在のマルセイユ)へと海路で向かわせる。リグリア海沿岸を陸路で東進してくるであろうハンニバルを迎え撃つためである。同時に執政官ティベリウス・センプロニウス・ロングスが4万の兵を率いて海路でカルタゴ本国を衝くべくシチリア島へと向かう。しかし、ハンニバルが向かったルートはアルプス山脈を越えるルートであった。雪と氷、現代でおいても困難なルートである。まして当時は、未開地の蛮族の襲撃にも警戒しながらの行軍であった。山脈を超えたときには兵も戦象も半減していた。
ローマの戦略眼は極めて合理的であった。しかし、ハンニバルのアルプス越えの奇策に完全に虚を突かれた。ハンニバルは、スキピオの4万の軍勢を「チニキス湖畔の戦い」で撃破し、急ぎ呼び戻されたロングスの軍団も「トレビア湖畔の戦い」で壊滅させた。この勝利によって、北方の未開地の部族をハンニバルは味方につけることができた。ローマは八個軍団八万の兵を二手に分けてハンニバルの軍を挟撃しようとするが目論見通りにはいかず、ハンニバルに「トラシメネス湖畔の戦い」で壊滅的な打撃を与えられた。
ローマに向かって南下してくるハンニバルの軍に対し、ローマはたった1年で3度の大敗北を喫し、震えあがった。ローマは軍の再建を急ぐとともに、クィントゥス・ファビウス・マクシムスを独裁官(デイクタトール)という非常大権を与え、この事態にあたらせた、ファビウスは決戦を回避し、一定の距離を保ちながらハンニバルの軍を追跡し、ゲリラ的な戦法で夜襲を行ったり兵站の補給の妨害などを行った。この方法は効果があり、ハンニバルは決戦に誘い込もうと挑発を繰り返したがファビウスは乗ってこなかった。しかし、ローマ人もイタリア半島を蹂躙するハンニバルに対し限界を迎えており、ファビウスの任期が切れると選出された二人の執政官は、再び9万の兵でハンニバルに挑んだ。ハンニバルの軍の倍以上の戦力である。
ハンニバルは南イタリアのローマの補給基地があったカンナエを占拠した。ローマ軍は急ぎカンナエへと向かう。紀元前216年8月2日。カンナエ付近の広大な平原を決戦の舞台に定めたハンニバルは、七万の重装歩兵を三列に敷き、両翼に騎兵を配したローマ軍に対し、3万の重装歩兵を凸型に敷き、両翼に軽騎兵を置いた。決戦が始まり、前進するローマの重装歩兵に対し、ハンニバルの軍は中央を後退させていく。いつの間にか凹型に変化したハンニバルの軍の懐に誘い込まれたとローマ軍が気付いた時には、もはやどうにもならない状況になっていた。ハンニバルの軍の軽騎兵がローマ軍の背後に回り歩兵も攻撃に転じた。そこから先に行われたのは戦いではなく、一方的な虐殺であった。この「カンナエの戦い」は倍の兵力を相手に包囲殲滅するという、世界軍事史上最も鮮やかな勝利であった。
ハンニバルはローマへの攻撃を行わず、この大勝利を利用し、ローマの同盟都市を離反させようと試みた。動揺しているローマが自壊するであろうという目論見があったかもしれない。攻城兵器がなく、強固なローマを責めるのは損耗が大きすぎるという判断もあったかもしれない。再びファビウスが提唱した時給戦法を取ることを決意したローマに対し、期待した同盟都市の離反もほとんどなく、カルタゴ本国からの支援もないハンニバルは、ローマを直接攻撃することなく南イタリアを東奔西走することになる。
第二次ポエニ戦役が始まり9年が経った。その間にローマの軍も再建され、優れた指揮官も育っていた。かつて「チニキス湖畔の戦い」でハンニバルに敗北し、その後イベリア半島で戦死したプブリウス・コルネリウス・スキピオの同名の息子である。スキピオはハンニバルの戦法を徹底的に研究していた。紀元前210年。スキピオが率いるローマ軍はハンニバルの後方支援の拠点であるイベリア半島へと攻め込んだ。ローマ軍は連戦連勝を重ね、ハンニバルのイベリア半島からの補給を完全に止め、ハンニバルと合流すべく兵を率いてイベリア半島を脱出したハンニバルの弟・ハズドルバルもその途中にローマ軍と遭遇し戦死させた。
スキピオは次に北アフリカのカルタゴ本国を直接攻撃するために、35000の兵を400隻の軍船に乗せて出立し、北アフリカのウティアへと上陸した。紀元前204年の春のことだった。カルタゴ軍はヌミディア軍とともにこれにあたるがスキピオは一蹴し、ヌミディアに攻め込み従属させた。ハンニバルがやったようにカルタゴ領内を荒らしまわるスキピオの軍勢に、カルタゴはついにハンニバルを呼び戻すことに決める。紀元前203年の秋。ローマは16年に渡る悪夢から解放されることになった。共に敗北を知らないカルタゴとローマの名将は、最終決戦の直前に対面したと伝えられる。ハンニバルはスキピオに譲歩した講和内容を伝えたがスキピオはあくまでも自身の要求を後退することはないと突っぱねた。紀元前202年10月18日。ザマの平原で両軍は相対した。50000の歩兵に2000の騎兵、80頭の戦象を与えられたハンニバルに対し、歩兵40000に騎兵4000のスキピオ。戦いが始まるや放たれた戦象への対処はローマ軍によって研究されており効果を発揮しなかった。そして、その後に起こったのはカンナエの戦いの再現であった。今度はローマ軍が包囲する側である。ハンニバルは完敗を喫した。カルタゴは形式的には対等な条約をうたいながら、軍備や戦争を放棄し、海外の領土をすべて失い、10000タレントの莫大な賠償金を支払う、ほとんど従属国になったも同然の条約を結び、第二次ポエニ戦役は終結した。
偉大な勝利者となったスキピオは、ローマに凱旋すると市民から熱狂で迎えられ、アフリカヌスの尊称を授かった。しかし、カルタゴへの包囲攻撃を行わず、ハンニバルを裁くことなく政治家として生き残らせたスキピオの寛容な姿勢は、ハンニバルによって身内や縁者などを殺害された多くのローマ市民に必ずしも受け入れられたわけではなかった。このことは、後にスキピオ・アフリカヌスの政治的な対立の端緒となった。ローマのために命をなげうち、ローマの安定のために尽くしたスキピオだったが、後半生は政争に明け暮れる元老院の中にあって、弾劾されるに至る。晩年のスキピオはローマから遠く離れた地で亡くなり、現在ではその墓がどこにあったのか分かっていないという。ある伝承では「恩知らずの我が祖国よ――」と墓石に刻ませたとも伝えられる。
スキピオはむしろ好敵手であり戦術や用兵の師ともいえるハンニバルの方に親近感を抱いていたのかもしれない。そのハンニバルは、第二次ポエニ戦役の後、カルタゴの独裁官として国の立て直しに尽力した。しかし、政敵のローマへの密告によって命が危うくなり、シリアへと逃れる。その後は地中海沿岸を転々とした末、小アジアのビニチアへたどり着く。その地にもローマの手が伸びてきたのを悟ると毒杯をあおって死亡したと伝えられている。両者が死んだのはほぼ同時期の紀元前183年ごろだったという。
【ストーリー】
紀元前3世紀――。幼少のハンニバルは、父からローマへの復讐心を教え込まれて大人になった。スペインを支配下に置き、その姫を妻としていたハンニバルは、機は熟したと考え領内にあったサグンツム市を攻め落とす。サグンツムはローマの同盟市であったため、ローマからの使者がカルタゴに向かい、ハンニバルを引き渡すように要求する。ローマの使者ファビウスは「和平か戦争かを選べ」とカルタゴの長老会議に迫るが、長老会議は「ローマが選べ」と回答する。ファビウスのは戦争を宣言してローマへと戻った。
いよいよ、ローマへの復讐を果たす時が来たとローマへの侵攻を開始するハンニバルだが、通常のルートで侵攻してもローマの軍勢に阻まれるのは目に見えている。そこでハンニバルが選んだのはアルプス越えであった。それは危険な道のりになることは容易に想像できた。ハンニバルも然りである。妻に再会を約束し、ローマへと旅立つ。そこは未開の部族の地でもある。ガイドを買って出た部族の長に裏切られ、何とかこれを撃退する。その頃、ハンニバルの軍と戦うためにマルセイユに立ち寄ったスキピオ親子が率いるローマの軍勢は、スペインを発ったハンニバルの軍勢の動きを見失い、出し抜かれたのに気付く。
アルプス越えは過酷を極めた。温暖な地に慣れた兵や戦象は次々と倒れていく。しかし足を止めるわけにはいかない。足を止めたら待つのは死ばかりである。ようやく山を越えることができると思われた矢先、巨大な岩石が軍の歩みを止める。しかし引き返すわけにはいかない。ハンニバルは薪とワインを出させ、大岩を燃やしてこれを砕いた。ようやくアルプスを越えたときには兵も戦象も半減していた。失われた兵を補充するために、ローマの支配下にあるガリア(フランス)の部族たちを説得して回るが、ローマの強さを知っている彼らは色よい返事をしなかった。しかし、ローマ軍相手に連戦連勝するハンニバルに、ガリアの部族たちも共に戦うことを願い出る。
ハンニバルが進む先にはローマ兵の屍があふれた。ローマでは、独裁官クィントゥス・ファビウス・マクシムスがハンニバルを相手に野戦を挑むのは得策ではないと持久戦を戦うことを決める。しかし、ハンニバルが農場を焼いて回り、ローマの貴族たちの間で不協和音が出始める。ローマは軍を結集しカンナエの地でハンニバルを相手に決着を付けようとするが、結果は大敗亡であった。ファビウスの考えが正しかったことを知ったローマ人は再び持久戦を挑むことに決める。その頃、ハンニバルの陣営ではカンナエの大勝利の勢いでローマに迫るべしという意見が出ていたが、ハンニバルは了承しなかった。そして、膠着状態のまま時が経ち、ローマにも若き英雄スキピオが頭角を現していた。
【感想】
歴史に名を残す戦術の鬼才、ハンニバル・バルカの生涯を90分ほどにまとめたテレビドラマ。時間も短く、TVドラマとあって迫力不足だが、アルプス越え、カンナエの戦い、ザマの戦いといった要点は押さえられていて、第二次ポエニ戦役について知りたい人にはいい作品だろう。内容的には歴史の教科書のよう……と言っては言葉は悪いかもしれないが、ハンニバルについてはカルタゴが滅亡しその史料のほとんどが消えてしまっているため、ローマ側の史料に頼らざるを得ないが、その史料に忠実に(と言えるほどこの時代を知っているわけではないが)描かれており、好感が持てる。反面、ハンニバルの視点で物語を進めるなら、もっと作家の創造性を膨らませてハンニバル像を作ってくれても良かったのではないかとも思う。