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戦艦バウンティ号の叛乱(1935年)





DATE

Mutiny on the Bounty/アメリカ
監督 : フランク・ロイド

<主なキャスト>

クリスチャン : クラーク・ゲーブル
ブライ : チャールズ・ロートン
バイラム : フランチョット・トーン
                 ……etc

目次
『戦艦バウンティ号の叛乱(1935年)』の作品解説
キーワード『バウンティ号の反乱事件(1788年)』
『戦艦バウンティ号の叛乱(1935年)』のストーリー
『戦艦バウンティ号の叛乱(1935年)』の感想


【作品解説】

 18世紀末ごろに起こった実際の事件をもとにしたベストセラーの映画化。日本でも1938年に公開されたが、時代は軍国主義の真っただ中、叛乱の文字はタイトルから削除され大幅な検閲が行われ南海征服という題名で公開されたいわくつきの作品でもある。『戦艦バウンティ号の叛乱』のモデルとなったバウンティ号で起こった反乱事件は、この後も何度か映画化されている。


【バウンティ号の反乱事件(1788年)】

 バウンティ号は、1784年石炭運搬船としてイギリスで建造された。元の名は「ベシア」。排水量215tの小型船ながら、3本マストの全装帆船だった。1787年にイギリス海軍が購入し「バウンティ」と改名した。イギリス海軍が購入した目的は、西インド諸島での食糧事情を改善するためにタヒチ島のパンノキを輸送する実験航海に使用するためだった。ウィリアム・ブライを艦長とし、乗務員は植物の専門家を含めて46人だった。

 1787年12月、砲門を搭載するなどの改修を終え、イギリスのポーツマス港を出航し、タヒチに向かった。1788年10月に到着。パンノキを積み終えて、翌年4月4日にタヒチを離れた。4月28日。トンガ沖を航行中に、海軍士官クリスチャンを首謀者とする叛乱が発生。叛乱を起こすに至った詳しい動機は分かっていないが、タヒチの楽園のような生活を経験した後だっただけに、沸点が低くなっていたとも言われる。ブライ艦長とその部下18人は救命艇に乗せて海上に置き去りにされた。

 反乱者たちはトゥブアイ島に向かうが、先住民と争いになりタヒチへと向かった。16人がタヒチに残り、残りの8人は現地人を連れて、イギリスの海図に載っていない無人島ピトケアン島に逃げた。バウンティ号はそこで沈められた。ブライ艦長を乗せた救命艇は、6月14日にインドネシアのティモール島に辿り着いた。ブライ艦長からの報告を受けたイギリス本国は、ただちに捜索隊を差し向け、タヒチで14人が逮捕された。しかし、ピトケアン島に逃亡した反乱者を見つけることはできなかった。彼らの消息が明らかになるのは1808年にアメリカの捕鯨船によって発見された時で、その時には反乱者はジョン・アダムズを除いて全員死亡していた。


【ストーリー】

 1787年。戦艦バウンティ号がタヒチに向けて出港した。ブライ艦長はキャプテン・クックのもとで経験を積んだ優秀な航海士だったが、乗務員を酷使し些細なことで拷問同然の懲罰を繰り返した。そのため、乗員からの信頼を失ってしまっていた。さらに、乗務員から信頼の厚かったクリスチャンに命令を拒否されたことに腹を立て、底意地の悪い仕返しをするようになる。

 それでもタヒチへは無事に到着し、パンノキの苗木を積み込み、ジャマイカに向けて出港する。出航後も相変わらずの態度で乗員に接するブライ艦長。タヒチの楽園のような生活を経験した乗員のブライ艦長への不満は一気に爆発した。クリスチャンも、窃盗の容疑をかけられたことでブライ艦長へのこれまでたまりにたまった怒りが爆発する。叛乱はあっけなく成功し、艦長と艦長に従う士官たちは小さなボートにわずかな食料ととも大洋のど真ん中に放り出されることになる。

 ブライ艦長たちは海の藻屑と消えるはずだった。叛乱に成功したクリスチャンたちは、タヒチで過酷な船上の生活を忘れのんびりとした日々を過ごした。しかし、ブライ艦長は3500マイル(1マイル=1852メートル)を小さなボートで生き抜き、反逆者たちを捕えるために再びタヒチへと向かうのだった。


【感想】

 海洋反乱ものの元祖ともいうべき一本で、古いモノクロ映画ながら現代でも見る価値ある秀作。有名な事件がモデルとなっているが、その動機などは詳しいことは分かっていないという。そのため、あくまでもこの物語は物語ではある。しかし、今よりも航海技術が進んでいなかった時代、ブライ艦長のように力で船を支配しなければ、船の規律や秩序はあっという間に崩壊してしまうのも事実だったのかもしれない。ブライ艦長を演じているチャールズ・ロートンの悪漢ぶりは見事。